「嬉しいけど気に入らない」母親が虐待をする理由
一方で母親は、丘咲さんの教育に関しては熱心だった。3歳頃から算数や漢字のドリルをやらせ、ピアノを習わせた。
「母には、寝たきりで動くこともままならない重度身体障害者の兄が1人いたようです。私が生まれたときにはすでに他界していましたが、その兄の存在は、母の家族においての“秘め事”でした。母はその兄の面倒を見るために作られたような節があり、子どもの頃から兄の世話をすることを強要され、友だちと遊ぶこともできず、本当は勉強がしたかったのに、中学校も満足に通わせてもらえなかったと聞いています」
自分の子ども時代に我慢を強いられ続けたため、娘の教育に力を入れることで心の均衡を保とうとしていたのかもしれない。
母親は父親との結婚後、義両親から「女は家の中にいるべき」という価値観を押し付けられ、仕事を辞めさせられてしまう。
それでも社会と繋がっていたかったのだろうか。父親の稼ぎは良かったが、母親は娘たちが幼い頃は内職をしていた。
「母は3歳上の姉にも私に課してきた課題を同じようにさせていたようですが、姉は算数も漢字もできず、ピアノの練習もしようとはしなかった。そのため母は姉を見限り、姉に対してネグレクト(育児放棄)のようになったのだと思います」
丘咲さんは、母親の期待に応え続けた。ドリルの点数が良かったり、ピアノの先生に褒められたりすると、母親の機嫌はあからさまに良くなった。
「当時は、『期待に応えないと暴力を振るわれる』という恐怖と、何より、『母から褒められたい』という想いで必死でした」
ところが、丘咲さんが期待に応えれば応えるほど、母親からの虐待は激しくなっていく。
「母は、家庭の事情でろくに学校にも通えず、就職はしたものの渋々家庭に入る道を選びましたが、『働き続けたい』という思いが強かった。だからおそらく、『娘が自分の期待通りになってくれるのは嬉しいけれど、自分が叶えられなかったことを娘が叶えていくのは気に入らない』という矛盾した感情があったのでしょう。私が期待に応えれば応えるほど、『もっと優秀にしたい』という気持ちが強くなる一方で、虐待も激しくなったのだと思います」
筆者はこれまで50人ほどの毒親育ちの人に取材してきたが、多くの毒親がこのような「嬉しいけど気に入らない」という相反する感情をのぞかせる。また、「自分は毒親のようにはなるまい」と思って親になった毒親育ちの人からは、「自分はこんなに大切に育てられなかったのにずるい」という「嫉妬心のような感情を自分の子どもに対して持ってしまう」という話も聞いた。筆者はこの「嫉妬心のような感情」に抗えなかった人が毒親になってしまうのかもしれないと考えている。
11歳で「心身症」を発症
物心ついた頃から両親が不仲なうえ、父親には恐怖を感じ、母親からは過度な期待や虐待を受け続けてきた丘咲さんだったが、11歳の時に全身が麻痺しているような痛みや、椅子から立ち上がれなくなるほどの痺れを訴えるように。
近所の整形外科を受診したが原因が分からず、大きな病院を紹介されて受診すると「心身症」と診断され、すぐに入院することになった。