正子さんの書いたものは怖くて読めない
「『精選女性随筆集 白洲正子』、申し訳ないけど、まだちゃんと読めていないの。私ね、だめなのよ。正子さんの書いたものを読むのが怖いの。彼女が失敗するんじゃないかと思って」
桂子さんは白洲正子が30歳で産んだ娘で三人兄妹の末っ子だ。
「二人、兄がいるんだけど、正子さんは、自分の世界が大事な人で、長兄と私は殆どほったらかし。次兄は身体が弱かったこともあり、可愛がられていたけど。でも、どこの家でも親ってそういうものだろうと思っていたから、恨む、とかそういうのはないの。中学生くらいの頃から、ずっと自分のことは自分で決めてきた。それに、ある時点で、母親と娘って役割が入れ替わるものじゃない」
気品と気骨あふれる名随筆が後進の生きる道標ともなっている白洲正子だが、意外というべきか、やはりというべきか、家事はできなかったという。伯爵令嬢という環境もあろうし、やがては文筆の血となり肉となる「遊びと勉強」に終生献身していたゆえかもしれない。正子の後半生においては、桂子さんがそれこそ「母親」のようなかいがいしさで、その暮しと仕事を支えていた。車好きの次郎から運転を教えられた桂子さんは16歳で免許を取得、晩年、よく京都に取材に行っていた正子を、新幹線の新横浜まで送迎したという。幼い頃からお手伝いさんが料理をする姿を眺めているのが大好きだった桂子さんは、『白洲家の晩ごはん』などの著作があるほどの料理の腕前である。
「次郎さんから“お前のおふくろさんみたいになるなよ。メシも作れない”と、二言目には言われたの(笑)。若気の至りで熱烈恋愛結婚だったくせに。正子さんからは“自分だけのものを持ちなさい”と言われたけど、それには反発心しかおこらなくて(笑)。正子さんは母親業にも主婦業にもあまり関心を持っていなかったけど、次郎さんはちゃんと父親をやろうとしていた。私が生まれた時“この娘が酒を飲めなかったらどうしよう”と思ったんだって。正子さんは、飲むと、顔が真っ赤になっちゃうの」
学齢の頃、父・次郎と次兄、桂子さんの三人は、年末年始の2週間、スキーに行くのが恒例だった。行き先は最初は志賀高原、のちに蔵王となった。
「志賀高原は次郎さん運転のランドローバーで無理矢理、丸池まで行くの。その頃、アメリカの進駐軍が接収していた丸池ホテルに、次郎さんの知り合いがいたみたい。そのホテルの中は文明社会なんだけど、少し離れた、我々のスキー小屋では、裏に雪穴を掘って、コロッケなど、東京から運んできた食糧を埋めておくの。ご飯とみそ汁は、毎日夕方に、木戸池ヒュッテというところから届けてくれていた。おかず作りは父と私の仕事だったの。小屋の近くに湖があってね。地元の漁師たちが毎日釣りをしているから見に行っていたら、『やってみるか』と釣り竿かしてくれて、すっかり面白くなっちゃった。子供のことだから、あまり釣れなくて、5匹くらい。それを次郎さんがフライパンで焼いてくれる。スキーなんて殆どしなかったわね(笑)。蔵王に行くようになってからは、温泉町があるから、夕方になると、次郎さんと橇(そり)に乗って買い出しに行ってた。楽しかったといえば、楽しかったわね」