白洲正子の流儀とは何か
傑出した人間と面と向かうのは心労だから、その人の凄さを感じつつも横で眺めておくようなつきあいで済ましておいて、後になってからさも近しくつきあったごとく他人に、あの人は凄い人であったと吹聴するような狡(ずる)さを、断じて許さなかったのが白洲正子だった。いつも逃げずに真正面からその人間に近づいてゆく。時に、人が普通接近する際に保つ距離を超えて。
しかし、同時に白洲さんは、面と向かうだけでは人も物も見えてこないということも熟知していた。人なら時間をかけて丁寧につきあう。物なら身辺において何年も眺め、いじる。そして風景なら同じところに何遍も繰り返し足を運ぶ。意識的に、無意識的に、さまざまな局面に接して見る。見たものを書くのではない。見えてくるものを書くのだ、というのが白洲正子の流儀である。本書を読まれた方々はその消息を理解されるだろう。そうした流儀を彼女はいかにして獲得したのだろうか。
華々しい生い立ちと白洲次郎との結婚
白洲正子は一九一〇年、樺山愛輔(かばやまあいすけ)・常子の次女として東京永田町に生まれた。母方の祖父川村純義(すみよし)も、樺山愛輔の父の樺山資紀(すけのり)も薩摩藩士として明治維新を経験し、明治新政府の軍人として功績を上げた人物である。樺山資紀は若き日には薩南示現流(じげんりゆう)の使い手、軍人・政治家としては山縣(やまがた)内閣、松方内閣の海軍大臣、内務大臣、文部大臣等を歴任した(本書所収の「晩年の祖父」)。
父樺山愛輔は、若き日にアメリカ、ドイツに留学し貴族院議員や枢密顧問官を務め、国際交流、文化行政に力を尽くした。ジョサイア・コンドルの設計した永田町の洋館(「坂のある風景」)の応接間の壁には、黒田清輝(樺山家の縁戚にあたる)の「湖畔」が、食堂の壁には「読書」がかかっていたという。清輝がやって来ると、父と清輝は鹿児島弁で親しげに談笑して楽しい時を過ごした。しかし、普段は正子は広い食堂で一人ぽつんと黒田の「読書」を眺めながら食事をすることが多かったという。家族で炬燵(こたつ)に入ってミカンを食べる一家団欒とか、親父のドテラ姿も知らない、恵まれてはいても、一方で同世代の少女が当然経験していて当たり前の日常の欠落している少女でもあったようだ。おそらく日本の近代化のありようを最前線で見ていた少女であった。
十四歳のとき、アメリカの全寮制の学校ハートリッジ・スクールに入学し、十八歳で卒業しさらに上級学校に進む試験にも合格していたが、昭和の金融恐慌のあおりをうけ帰国、その直後に白洲次郎と出会い、恋愛結婚。その頃、幼い日より稽古を重ねていた能楽以外のことで、自分が日本文化にいかに疎いかということを痛感し、飢餓感をもって古典文学をむさぼり読んだり、大和路を歩き回ったりした。白洲次郎の仕事は海外を舞台にしていたから、一年の半ばは外国生活であったけれども、日本にいるときは大和を彷徨していた。
一九四〇年、白洲夫妻は鶴川村能ヶ谷に広い農地と農家を購(あがな)い、家に手を入れて一九四二年に引っ越し、結局そこがついの住処(すみか)となった(「冬のおとずれ」)。戦争中のことである。次郎は農業に挑み、正子はズボンをはいて仕舞のけいこに励んだ。夜はわずかな灯火のもとで梅若家から預かった能面の数々を眺めて暮らした。父の友人の志賀直哉や柳宗悦の勧めを受け、一九四三年には『お能』(昭和刊行会)を書き下ろす。さらに細川護立(もりたつ)の家(現在の永青文庫)に通い、古美術の講義を受け、陶磁器の魅力を知る。