父・白洲次郎と孫との蜜月
白洲夫妻が鶴川村の茅葺きの養蚕農家を買い取り、新宿から移住したのは昭和17(1942)年。桂子さんが2歳の頃だ。以来、結婚後1年あまり世田谷区で暮らした時期を除き、ずっと鶴川住まいである。「隣に引越して来い」と白洲次郎が新婚夫婦を強く誘い、両親の家の側に家を建てることになったのだ。
「父の晩年なんて、夕方になるとウチに電話がかかってくるの。『一杯やるか』って。最初5時だったのが、4時になって3時になって(笑)。とても付き合いきれないから、話し相手として息子を差し向けるようになった。息子が中学3年になる直前に次郎さんは亡くなったんだけど、中学1、2年の2年間、次郎さんとどっぷり付き合っちゃったわけ。こういう事はしてはいけない、とか、自分に責任を持つというのはこういうことだ、とか、色々話をされたみたい。今、息子が、同じことを自分の娘に言ってるわ(笑)」
1950年代、白洲夫妻は軽井沢にも、小さな家を持つようになる。
「毎年7月のはじめ頃から9月半ば頃まで両親は軽井沢で過ごしていたわね。私は、息子が夏休みに入ると、食事係として行っていた(笑)。父と母は朝起きる時間が違うから大変なの。父の朝食を準備し、その片付けが終わると母の朝食の支度をして、それが終わると昼食の時間になる(笑)。午後にちょっと一息つけたかと思うと、晩御飯は6時からだから、5時には台所に立つ。外食したり出前を取ったりもしたけど、お客さんも多くてね。文壇ゴルフが盛んな時代で、作家や編集者もしきりにやって来ては飲んでいたわね(笑)」
『精選女性随筆集 白洲正子』には、文士たちに愛された銀座の女性・坂本睦子(むうちゃん)を偲ぶ文章が2篇収録されている。学習院女子部の時から親しかった秩父宮勢津子妃、生まれた時から自分の世話をしてくれて結婚後もついてきてくれたお手伝いのタチさんなど、正子は、数は多くないが、自分にとってかけがえのない女性たちについて、繰り返し書いている。
「睦子さんは、私はまだ子供だったけど、本当に綺麗な人で、母と仲良くしていた。自殺しちゃったのよね。ここ(旧白洲邸・武相荘)は、タチさんの親戚の伝手で買うことが出来たのよ。戦後まもなく、亡くなってしまったけれど。京都の『丸弥太』という魚屋さんの女将さんのことも大好きだったわね。四国からお嫁に来た人で、すごく努力して、とうとう、魚市場の競りはその人が現れなければ始まらない、と言われるまでになった人。ある時行ったら、ちょうどお店がすごく忙しい日で、暇になるまで、と、隅に座って女将さんのこと待っていたんだけど、あまりに忙しそうだったので先に帰った。そのあと正子さんが亡くなったので、女将さん、正子さんに付き合ってあげればよかった、って悔やんでいらした。京都でいつも泊まっていた旅館『佐々木』が、そこから魚を買っていたの」