『それは誠』 乗代雄介 著
主人公は地方に住む高校2年生の佐田誠。『それは誠』は、誠が東京への修学旅行の自由行動の一日に、先生たちには知らせずに行った小さな冒険を描いた物語です。
平易な言葉の積み重ねなのに、圧倒的な描写力
作者の乗代さんはインタビューで、本作の創作手法についてこう語っています。
「目当ての場所を決めたら、そこに一カ月くらい泊まり込んで、あらゆる時間帯にいろんな行き方で同じ場所を歩き回って、見たものをその場で書き留めていくんです。『それは誠』の場合は日野市でした。たとえば、公園にやって来た保育園児たちが落ち葉で遊ぶシーンがあるのですが、あれも実際に目にしたことです。すると、この時間帯に園児たちが散歩に来るとか、きれいな乾いた落ち葉が冬になってもたくさんあるとか、舞台の状況が把握できてくる。そうやって集めた風景から当然起こるべきこととして小説が立ち上がってきます。ストーリーは自分でコントロールしている意識はなくて、見たものを小説につなげるというより“つながる”という感じなんです。その場所で人がなにかしているイメージが見えてくる」
(好書好日 乗代雄介インタビューより)
誠は修学旅行の自由行動の日に「日野に住むおじさんに、1人で会いに行きたい」と、集団行動でともに動く予定の班員たちに告げます。誠は男子4人女子3人、人気者と余り者で構成された班員に(誠が気になる女子・小川楓が含まれている)、おじさんに会いたい理由を告白。最終的に男子3人は誠と行動することになります。
そして女子は学校から支給された男子のGPSを持って、学校に提出したコース通りに行動することで男子の「アリバイ工作」に協力。男子4人は密かに日野に向かい、おじさんの家を訪ねることに――。
平易な言葉の組み合わせなのに、高校生7名が交わす会話やシーンの描写がこの上もなくみずみずしくて、眩しい。一人一人の個性や背景がページを繰るごとに色彩を帯び、それぞれの心が近づいたり、離れたりしていきます。
たとえば教室で、ふとした瞬間に同級生女子とじゃれ合う小川楓に向けられた、こんな視線の描写。
小川楓は顔を下げたまま机を離れて、隣の井上の背中に腕を回し、鳩尾のあたりにすがりついた。乱されてアーチを浮かせた色素の薄い細い髪が、窓から斜めに差す午後の光を透かしている。僕はそこから目を離せないでいた。
その時、勢いよく開いた教室の引き戸が枠を叩くすごい音がした。クラス中が一斉にそっちを向くと、半分顔を出した名取の元に、戸がゆっくり返っていくところだ。タブレットの入ったカゴを持ってたんで停められなかったらしく、そのあとずっと平謝りしてた。
向き直ると、小川楓は井上の懐にもぐりこんだままだった。横髪のわずかな隙間から何回か、瞬きともいえない緩慢な目の閉じたり開いたりが見えた。その瞳は、セーターに睫毛が触れるほどの間近で、潤むような光をはなっていた。宿っている情を読み取るのは簡単だった――退屈。喜びや怒り、哀しみにふれた時と何ら変わりなく、退屈を漲らせてさえ小川楓の瞳は輝いていた。
織田作之助賞受賞作にして、著者は本作で芸術選奨も受賞
令和に描かれた小説ですが、普遍的な文学が持つ言葉の力、時代を超えた輝きが、この作品にはあります。それは、先に引いた作者の創作スタンスにもあるように、今この世界をとことん目に焼き付け、書き留めようとしているから。
作者は小学生から高校生までが通う、小さくてアットホームな塾で、長年講師をしていました。その時の子どもたちとのコミュニケーションの記憶が、のびのびとした高校生たちの描写に生かされているのでしょう。
また宮沢賢治やつげ義春、児童文学者の長崎源之助や漫画家・アーティストのタイガー立石、ミュージシャンの奥田民生など、さまざまなジャンルの表現者たちの作品が誠たちの心の中で生きていて、そのことも作品全体の土壌と物語の説得力に奥行きを与えています。
本作は第169回芥川賞の候補作となり、第40回織田作之助賞を受賞し、乗代さんは本作で令和5年度(第74回)の芸術選奨文部科学大臣賞にも選ばれています。
「彼らの冒険は小さいけれど切実さがある。ウエルメードな(筋書きがよい)物語に見えるが、苦闘して書いている乗代さんの姿勢にも感動した」(織田作之助賞選考委員・古川日出男さんのコメント)
「小説の面白さを知ってもらうためにも、是非多くの若い読者に読んでもらいたい作品」(芸術選奨・贈賞理由より)
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三者三様ならぬ三作三様の高校生活。つねに万事快調とはいかないし、道に惑うこともあるけれど、次に進むためにどうしても必要なことから目を背けず、小さな冒険を積み重ねていく中で、人生は進んでいきます。
高校時代のみならず、大人になっても、あるいは老境に達しつつあったとしても、人生において大切な「スタンス」のようなものが、この三作にはしっかりと刻まれています。