さらに、エルトゥールル号事故にはさらに後日談がある。1990年、イラクの独裁者サダム・フセイン大統領に率いられたイラク軍がお隣の産油国クウェートに突如侵攻して始まった湾岸戦争、それに対抗した多国籍軍の反撃を恐れ、フセイン大統領はイラクの首都バグダッドに駐在していた日本人商社マンらを人質として某所に監禁した。
その救出にイラクに向かうと同時にバグダッドで歌や踊りやプロレスの興行まで打ち、失意の日本人商社マンとその家族をはげまそうと図った生前のアントニオ・猪木参議院議員(当時)らに経由地のイスタンブールまでチャーター機を手配し、実際向かったのもトルコ航空である。不肖・宮嶋もそのチャーター機に乗っており、機内では気勢を上げるため機内放送のマイクを使い、河内家菊水丸氏らの歌合戦が始まったが、飛び入りでそのチャーター機の機長もコックピットから歌合戦に参加してきたのにはびっくりしたのを昨夜のごとく覚えている。まあ結局は猪木氏らのご尽力のおかげというよりサダムの気まぐれで日本人に限らず、全国籍の人質が解放され、その後多国籍軍のイラク空爆が始まることになり、その禍根はイラク戦争まで尾を引くことになる。
日本のメディアではほとんど報道されなかった美談
さらにや、なぜか日本で全然報道されんかった美談がある。1999年8月トルコ北西部でM7.4の地震が発生、最も被害の大きかった町の名をとり、イズミト地震と呼ばれ、死者約1万7000人、負傷約4万4000人、約60万人が家を失う大災害であった。日本政府はその4年前発生した阪神淡路大震災で被災した神戸市民のために使用していた仮設住宅500戸を被災地に送るべく神戸からイスタンブールまで海上自衛隊の輸送艦「おおすみ」、掃海母艦「ぶんご」、補給艦「ときわ」を派遣した。不肖・宮嶋もその航海に、エジプト、アレキサンドリア港からイスタンブールまで同乗したが目的地のイスタンブールや被災地のイズミトでは大歓迎を受けたのはいうまでもないんやが、それを報じた日本のメディアはほとんどなく、同乗取材したのは不肖・宮嶋のほか防衛ホームの記者1人だけであった。この美談の裏には隠れた悲話もあった。海上自衛隊の艦艇が他国海軍に比べ、むちゃくちゃきれいなのはよく知られているが、この航海では神戸の仮設をコンパクトに折りたたみ500戸も積み込んだまでは良かったんやが、その500戸に自衛艦にはまったくいなかったはずのゴキブリが大量に潜んでいたのである。そのため航海中乗員はゴキブリ退治に追われるはめになったのである。