清少納言こそ、したり顔で大袈裟にしている人です。あれほど利口ぶって漢字を書き散らしていますけれども、よく見ればまだたいそう至らないことが多い。こう、私は人とは違うと見せたがる人は、きっと見劣りして化けの皮がはがれるでしょう。たいしたこともないことにも、もののあわれを言い立てて、美しいことを見過ごさないでいようとするので、自然とむやみに浮ついたようになるのでしょう。その浮ついた人の成れの果てにどうしてよいことがありましょうか。
定子亡きあとの清少納言
清少納言が定子亡き後、どうしたのかはわかっていない。そのまま定子出生の子をひきとった定子の妹、御匣殿のもとに仕えたかもしれない。ただし御匣殿も定子亡き後、一条天皇の寵愛を得て懐妊したものの、定子の死の翌年に亡くなってしまった。あるいは定子出生の敦康親王付きの女房となったとしたら、敦康親王は定子の死後には彰子のもとで育てられるので、清少納言は存外、紫式部の近くにいたことになる。清少納言が漢籍に詳しく、漢詩をふまえたやりとりをして、男たちを楽しませたことはよく知られていただろうから、いま男たちが彰子サロンはつまらないと言っているなかでもっとも必要な人材だったはずだ。しかし、漢籍に詳しいという意味では学者筋の父を持つ紫式部にも自負がある。漢籍のことなら、なにも清少納言を呼び出さずとも私で十分です、と主張したいところだろう。
紫式部の自負と『源氏物語』
このあとに続けて、紫式部は自らの生い立ち遍歴を述べ、いかに漢籍に親しんできたかを書きつけていく。亡くなった夫の宣孝が残していった漢籍があって、それをつれづれ読んでいたら、女房たちが集まってきて、ご主人さまはあんなものを読んでいるから女の幸せをつかみそこねるのです。なぜ女が真名書き(漢字)を読むことがありましょう。昔はお経さえ読むなと注意したものです、などと陰口を言っているのを聞いたこと。一条天皇が源氏の物語を人に朗読させてきいていたとき「この人は日本紀をこそ読みたるべけれ。まことに才あるべし」(この人は歴史書を読んでいるらしいね。本当に学識がある)と言ったので、一条天皇に仕える女房の左衛門の内侍という人が、「日本紀の御局」にあだ名をつけられたこと。