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プリンス・エドワード島へ

  1991年春に翻訳を始めると、すぐにカナダ旅行を手配しました。『アン』には島の風景と地形、植生の描写が多く、現地取材が重要だと思ったからです。たとえば現代のカナダ人が『源氏物語』を英訳するなら一度も日本へ行かずに光源氏の恋とあわれを訳すよりは、一度でも京都や宇治を旅するほうがよいでしょう。

 1991年夏に初めてカナダを訪れたときは、憧れの「アンの島」に来た感激はもちろん、翻訳者として「ああ、モンゴメリが英語で書いていたあれは、これだったのか!」と、見るものすべてに目からうろこが落ちる新発見の連続でした。

林檎の花の果樹園、プリンス・エドワード島 撮影:松本侑子

 たとえば、リンド夫人が暮らす窪地(くぼち)とはこういう地形だったのか! に始まり、『アン』冒頭でリンド夫人が16枚編むベッドカバー、アンとダイアナのお茶会のラズベリー水、島の乾いた赤土の色と濡れた赤土の色合いの違い、日本ではめずらしいえぞ松(とうひ)の青灰色の葉が鈍く光る針葉樹の堂々たる美、緑の葉と白い幹がさやわかな樺の木立……。

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 銀色と桃色に空が光って夜が明けていき、薄青と真珠色の朝もやが淡くかかり、やがてどこまでも高い青空が広がり、緑のまき場はそよ風に波うち、歩いていく島の赤い道のセント・ローレンス湾に濃紺の海が盛りあがるように満ち、赤茶の砂岩の断崖に打ちよせる白波の音を聴き、潮の匂いをかぎます。また林をゆけば木立を吹きぬける風の涼しさに驚き、高緯度地帯の夏の8時、9時となってもなかなか暮れない金色(こんじき)の明るい夕方を初めて体験し、壮大な夕焼けに天を仰いで息をのみ、紫色に翳(かげ)っていく宵に星影がまたたき、夜の漆黒の海に昇る月の幻想美、月にむかって暗い海面に銀色の道がちらちらまたたいてのびている美しさ。モンゴメリによる麗々しい島の描写は現実の風景であり、そこにわが身をおく喜びに陶酔しました。

 モンゴメリ生家で彼女の父母の新婚までの暮らしを想い、引きとられて育ったマクニール家では家屋はすでにないものの、敷地を囲む木立の葉のざわめきを聴きながらモンゴメリが『アン』を書いた暮らしを想い、モンゴメリと夫ユーアンが結婚の誓いを述べたキャンベル家客間の暖炉の前に私も立ち、彼女が生きた日々を実感しました。

 次からの取材はレンタカーで移動しましたが、最初の旅は、島に生まれ育ち、米国テキサス州で働いて島外の暮らしも知るカナダ人男性の運転とガイドでまわり、島の習慣、食事、動植物、島民気質、そしてモンゴメリについて質問しました。島からアンのふるさとノヴァ・スコシア州の空港へ飛び、モンゴメリが大学で学び、新聞社に勤務して、第三巻『愛情』に描いたハリファクスも1991年に取材しました。

 カナダ東部とモンゴメリの故郷を旅して、『アン』を深く理解できた感激と文学旅行の意義を知った私は、それからは好きな小説の土地と作者の家を探してドイツや英国など欧米の田舎へ行き、100作品の舞台を訪れるようになるのですが、その始まりはプリンス・エドワード島旅行でした。

『アン』の原書には凝った古風な一節が多く、英詩や戯曲の一節ではないかと考え、引用かもしれない文章を700カ所、ノートにペンで書き写し、翻訳しながら出典の調査も始めました。

(「八の扉 翻訳とモンゴメリ学会」より抜粋)

松本侑子(まつもと・ゆうこ)作家・翻訳家。
​著書に、『巨食症の明けない夜明け』(すばる文学賞)、『恋の蛍 山崎富栄と太宰治』(新田次郎文学賞)、『赤毛のアンのプリンス・エドワード島紀行』(全国学校図書館協議会選定図書)、『英語で楽しむ赤毛のアン』、詩人金子みすゞの詩を読解した『金子みすゞと詩の王国』(文春文庫)、みすゞの伝記小説『みすゞと雅輔』など多数。
訳書に、日本初の全文訳・英文学からの引用などを解説した訳註付『赤毛のアン』シリーズ全八巻(文春文庫)など。
2022年と2024年にカナダのモンゴメリ学会で研究発表。カナダ渡航30回。

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