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 十條工場には王子駅の脇から貨物輸送のための専用線も敷設されていた。この専用線は十條工場の大部分がマンションに変わり、一部が倉庫になってからも営業が続けられており、廃止されたのはつい最近の2014年。だから、いまも廃線跡が町中にまったくはっきりと残っている。

 王子製紙は、戦後の財閥解体によって3社に分割され、王子工場は十條製紙に引き継がれている(現在は日本製紙)。ただ、王子工場は空襲によって大きな被害を受けており、そのまま復旧されることはなく、1972年になって商業ビルのサンスクエアに生まれ変わった。

 王子の町は、王子製紙の製紙工場が生まれたことで都市化がはじまった。以後、多くの工場が集まるようになり、1883年に日本鉄道が開業するといきなり駅も与えられた。赤羽や川口よりも先に駅ができたあたり、王子製紙を中心とした工場群の利便性を考慮したのだろう(日本鉄道の経営陣には渋沢栄一も名を連ねており、我田引鉄の向きもあったかもしれない)。

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 ともあれ、江戸時代以来の行楽地・王子は、明治に入っていち早く工業都市として生まれ変わった。工場があれば働く人もいるわけで、周辺に住宅地、また商業地や繁華街が形成されるのもとうぜんのなりゆきだ。こうして、いまの王子の町の原形が形作られたのである。

都電が運んだ人はどういう人だった?

 そして、行楽地としての性質も失われることはなかった。江戸時代にはじまる名主の滝や町名の由来になった王子神社、そして飛鳥山公園。

 
 

 1911年に王子電気軌道によって開業した現在の都電荒川線は、こうした王子の行楽地へのアクセスが目的だった。荒川線沿線には鬼子母神やあらかわ遊園など他にも行楽地は多く、東京郊外の行楽路線の趣を有していたのかもしれない。