ジョブズが語った思い出「真夜中に帰宅した奥さんに…」
ジョブズが語ったその頃の思い出を、自身が唯一公認した伝記、『スティーブ・ジョブズ』(ウォルター・アイザックソン著)から紹介しよう。
「気づいたら、でき得る限り長い時間をコウブンと一緒に過ごすようになっていた。彼には、スタンフォード大学病院で看護師をしている奥さんと2人の子どもがいてね。奥さんは夜勤だったので、僕は夕方にコウブンを訪ねては遅くまで話し込んだ。で、真夜中に帰宅した奥さんに放り出されるわけだ」(筆者訳。以下同)
京大時代に、西洋哲学との関わりのなかで仏教を研鑽した弘文は、アメリカ人のジョブズにも禅が理解できるように伝える技量を培っていた。たとえば、『般若心経』をテーマにしたある法話ではこんな説法をしている。
「私たちには、普段は気づかない心、潜在的に横たわる深く広い心があります。ですが、知識や理解、許容範囲をすべて自分の尺度で築いている限り、盲目なままその心に出逢うことはできません。それは、プラトンの『洞窟の比喩』と同じことなのです」
プラトンの「洞窟の比喩」は、「人が見ている現実は往々にして真実ではない」と説いた欧米人には馴染みの喩え話であり、弘文が言う「潜在的に横たわる深く広い心」とは、仏教の阿頼耶識(あらやしき、過去から未来へと連続する心の領域で、もっとも根源的な心)を指す。仏教をギリシャ哲学と比較しながら英語で提唱する日本人僧侶など、弘文のほかまずいまい。
いまひとつ、弘文の法話から引用したい。
「あなた自身は、いつだってそこここにいるのです。本当のあなたを発見するのは、川の源流を探しあてることに似ています。源流に行ったことはありますか? とても神秘的な場所です。そこにいると目眩がするほど。霧深く、湿度が高く、肌寒くて、そして原始の香りがする。きっとあなたは『ここに立ち入ってはいけない』と感じることでしょう。けれども実際には、誰の心の芯にもこういう場所があるのです。その場所からは原始の声が聞こえます――『どうして私を見つけてくれないの。こんなに長い歳月、私と一緒にいるのに、どうして私の本当の名前を呼んでくれないの?』」
憔悴するほど自分探しをしていたジョブズにとって、これほど文学的で血肉となる言葉があっただろうか。
※本記事の全文(約10,000字)は「文藝春秋」2025年3月号と、月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」に掲載されています(柳田由紀子「ジョブズは和と禅に人生を救われた」)。全文では、下記の内容をお読みいただけます。
・「これが悟りの証拠だ!」
・禅を深めた“暗黒の十年”
・シンク・ディファレント
・人類へのお返し

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