彼女のお別れの会には元夫の渡瀬恒彦、森進一も参加…。2009年に62歳で亡くなった大原麗子さん。孤独死と言われながらも、彼女の最期が決して「孤独なもの」ではなかった理由とは? 朝日新聞編集委員で、昨年10月に亡くなった小泉信一氏の新刊『スターの臨終』(新潮社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/最初から読む)

大原麗子さんの若かりし頃の姿 ©文藝春秋

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両親の離婚、印象的だった2度のマドンナ役

 大原は、1946年11月、東京・文京区小石川で和菓子店を営む大原家の長女として生まれた。店は繁盛し、暮らしは裕福だったが、家庭は大きな問題を抱えていた。父親が日常的に母親と大原を殴ったのだ。さらに、住み込みで働く従業員と関係を持った。

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 大原が中学に入ったのに合わせて、両親は離婚した。子どもの頃から俳優を夢見ていた大原は、高校を卒業した1964年、NHK新人オーディションに合格し、ドラマ「幸福試験」に出演を果たす。翌1965年、東映に入社し、「孤独の賭け」で映画デビュー。そして「網走番外地」(1965~1967年)や「不良番長」(1968年)のシリーズで人気者になる。

「獄門島」(1977年)や「おはん」(1984年)といった話題作にも出演したが、やはり大原といえば、寅さんシリーズの2度のマドンナ役、そして、高倉健(1931-2014)演じる主人公を一途に愛する女性を演じて高く評価された「居酒屋兆治」(1983年)を思い出す人が多いだろう。

 さらにNHK大河ドラマ「春日局」(1989年)では、烈女のイメージが強いおふく(春日局)を母性愛にあふれた女性として演じた。大原は、「女優」と呼ばれるのを嫌ったという。

 その理由について、彼女は「自分はあくまでも容姿ではなく演技だけで評価されたい。『女優』ではなく『俳優』なんです」と語っていた。頑固なところがあり、台本で気になる点があると脚本家に書き直しを求めた。なかなか意見が通らず、降板したことも何度かあったという。離婚会見で、大原が「家庭に男が2人いた」と結婚生活を振り返り話題となった。仕事を続けたいと考えていた大原と、子どもを欲しがった森では家庭生活に対する考え方が違っていたのだろう。

 ところで、大原が亡くなった年の暮れ、テレビ東京系で「愛と涙の女優伝説」という番組が放送され、大原の自宅が初めてテレビに映された。一人暮らしでは寂しすぎる広さ。カメラは大原が残していたスクラップブックの中身にも迫った。雑誌などの切り抜きとメモ書き。やはり人知れず努力を重ねていた。病と戦いながら、大原は周囲に「もう一度きっちり病気を治して仕事に復帰します」と話していたという。