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追悼・菅井きん92歳 生前語った「シワ一本ギャラのもと」の映画人生

脇役一筋、老け役一筋 黒澤明から伊丹十三までを語る

2018/08/23

source : 文藝春秋 2003年8月号

genre : エンタメ, 芸能, テレビ・ラジオ, 映画

note

「黒澤組は恐ろしい所だから気をつけろよ」

 52年の『生きる』が黒澤さんとの初めての出会いです。

 最初は役者仲間から脅されましたよ。黒澤組は恐ろしい所だから気をつけろよ、って。私も当初は緊張しっぱなしだったように思います。

 たしかに、先生は背も大きいし、声も大きい。先生の怒鳴り声を聞いたら、みんなびびってしまうんですね。男性のスタッフや俳優さんにはとくに厳しかったようです。

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黒澤明監督 ©文藝春秋

 ある男優さんの演技がどうしても気にいらなかったんでしょう、相当厳しいロ調で文句を言ってらしたこともありました。しかもそういう時って、黒澤監督だけでなく、周りのスタッフ全員がその男優さんを囲んで……。あれでは、あの役者さん、息もできないだろうなあと思ったりしました。ちょっと可哀相でしたね。

 でもその反面、先生は意外と女、子供にはお優しいんですよ。

『生きる』での私の役柄は、長屋の陳情団のおばさん連中の一人。

 あれは雨降らしのシーンのことでした。最初は赤ん坊を背中に背負ったまま公園でずぶ濡れになる予定だったんです。

 でも監督が本番前に「赤ん坊が可哀相だから、赤ん坊は背負わなくていいよ」っておっしゃる。結局、私一人だけがずぶ濡れになりました(笑)。

 監督は私が俳優座に在籍していることをよく御存知のようで、「俳優座の青山杉作先生は僕の先生の山本嘉次郎さんの先生なんだよ」と言って、私のような者にも気軽にお声をかけてくださるのです。

 お昼休みにお茶をご一緒していたときだったと思うのですが、監督から一度直接言われたことがありました。

「映画ではね、NGを恥ずかしがってはだめだよ。作家だって、原稿用紙に何度も何度も書き直ししているんだから、NGを怖がることなんかないよ」

 そうなんです。当時から黒澤組はNGが多いことで有名でした。そういえば、『羅生門』がヴェネツィア映画祭金獅子賞を受賞したとき、黒澤組の人たちは、「撮影現場ではNG連発でどうしようもなかった上田吉二郎さんが、フィルムが出来上がってみると最高によかった。やっぱり監督に徹底的に叩かれた方がいいのかもしれないなあ」なんて話していたもんです。

 黒澤作品には、それ以降も『悪い奴ほどよく眠る』(60年)、『天国と地獄』(63年)、『赤ひげ』(65年)と立て続けに出していただきました。

『七人の侍』に出ていたかもしれない

 そういえば、最初の『生きる』に出たときに、黒澤監督に「今度僕がやる映画であなたの役を書いといたからね」と言われたのもいい思い出です。

 周りの役者仲間から、さかんに「あなた、いいわねえ、いいわねえ」と羨ましがられたんですよ。その作品が『七人の侍』だったのです。それなのに、たまたま病気になってしまって出られなくなっちゃった。あの時は本当に残念でしたねえ。悔しくて悔しくて。

 もし出られたとしたら、どんな役だったんだろう? ずっとそれが気になって気になって、完成した作品をこっそり観に行ったんです。そうしたら、川でバタッと倒れて、背中に槍が刺さっているという役だったんですけれどね(笑)。

若き菅井きんさん ©文藝春秋

 黒澤組で思い出すのは、撮影の前日に本番とまったく同じ条件でリハーサルをおこなうことでしょうか。もちろんセットは本番と一緒、ライティングもキャメラ位置も本番通りだし、役者も全員が本番とまったく同じように衣装を身に纏う。本番と違うのはキャメラを回さないということだけなんです。それはそれは丁寧に作っていたものです。

 こんなこともありました。『どですかでん』(70年)を撮ったときのことです。六畳一間ぐらいの大きさのセットの四方にキャメラのレールが設(しつら)えてあって、キャメラがそのレールの上をグルッと回ってくる。こういう仕掛けって、ライティングの設定が大変らしいんですね。照明さんの手が足りなくなってしまったことがあった。

 そうしたら、黒澤監督自ら、「僕がライティングやるよ」なんておっしゃられて、照明の方のお手伝いを始めたんです。ただし、撮影に入ったら、「監督、手が出ました」なんて言われていましたけれど。実はけっこうマメな方なんですよ。