26歳でプロデュースした『電車男』が大ヒット。30代には『告白』『悪人』『モテキ』『君の名は。』など、時代を動かす作品をいくつも手がけてきた。いま39歳。これからどのような道を進むのだろうか。彼が「オーバー50の巨匠」12人に会い、どう働いてきたのかを訊ねた対話集『仕事。』が文庫化されるにあたり、聞いてみた。川村元気にとって「仕事」とは――。(全3回の1回目)
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人間が伸びるのは知らない世界を学んだとき
――単行本の『仕事。』は2014年秋に出版されています。当時34歳だったご自身が12人の巨匠に話を聞いてまわろうと思った理由を、40歳を目前としたいま、どう振り返りますか?
川村 26歳のときに『電車男』で映画プロデューサーとしてデビューして、『デトロイト・メタル・シティ』『告白』『悪人』『モテキ』くらいまでの20代から30代前半までは、とにかく「がむしゃら」って感じだったんです。よくわからないけど、勢いで頑張る、みたいな(笑)。でも、意外とそれが初期衝動としてうまく仕事に作用して、仲間もでき、充足感もあった一方で、藤本賞(一般社団法人映画演劇文化協会主催、各年の優れた映画製作者に贈られる、川村は史上最年少で受賞)や、日本アカデミー賞(『告白』が日本アカデミー賞で4つの部門で最優秀賞を受賞)を頂いたりするなかで、自分の中で「映画を作ることに関しては限界までやりきってしまったのかな」という思いがありました。でも、それまでの仕事がちゃんと自力になっているのかも、よくわからなくて。
そんなときに雑誌から「何か連載を」と声をかけてもらって、思いついたのがこの対談なんです。ちょうど初小説の『世界から猫が消えたなら』を書くという新しいチャレンジを始めた時期でもありました。僕は元来バックパッカーで、高校以来、39歳になった今でも年に一度はわざわざ僻地を選んで一人旅をしていて、知らない土地に行って、そこに馴染むことができて、なおかつ勝負できるか、みたいなことを続けています。だから、人間が伸びるのも「知らない世界に学んで、新しいチャクラが開いたとき」と信じているところがあって、巨匠との対談も今となっては一つの旅シリーズだったと思っています。
対談相手を“オーバー50の巨匠”に限定した理由
――なぜ巨匠に限定してアタックしようと?
川村 当時さまざまな雑誌に掲載されていた、ありとあらゆる対談連載を読んで決めたのは「ただ会いたい人に会って、うれしい!みたいな対談はやめよう」ということ。逆に「自分の中で枷になる何かを」と考えたときに、僕自身が将来そうありたいという意味で“生涯現役で楽しそうに仕事をしているオーバー50の巨匠”という、厳しい条件を課すことにしました。50歳以上としたのは、普段の仕事ではもはや接点がない世代だから。そして、その枷のせいで何が発生するかというと、まず、相手を徹底的に勉強しないといけない。お会いするまでに、彼らの仕事をチェックして、近年のインタビューにも目を通して、対談の瞬間は相手のことを世界でいちばん自分が理解しているみたいな状態まで持っていかないと、見透かされてしまうし、新しい話をしてもらえないだろうと思いました。
でも、そうやって勉強することでわかったことは、人の作品や人生を徹底的に学ぶと、少なからず自分のものになる。おこがましいかもしれませんが、ある種、誰かの人生をいただくことができると思いました。その点に関しては僕の倍以上の年齢の山田洋次さんも『仕事。』の中で「学ぶというのはある時期まではそっくりなぞるように真似ること」という言葉で肯定してくれています。
ちなみに生涯現役の12人と話して強く感じたこととしては、誰一人として神棚に上がらずに、全力で何かをもらいにいっている僕みたいな若造の相手をしてくれるだけでなく、逆に「あわよくば自分も何かをもらおう」っていう(笑)。ビジネスマンにしてもクリエイターにしても、長持ちする秘訣はそんな姿勢にあるように感じたし、そういう人生の方が絶対に面白いだろうなと確信しました。僕も何歳になっても若者に対して「君、何をやってるの? 面白そうだね」と関わり続ける人でありたいですね。