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「もと5年2組のみんな……」全住民が避難した富岡町、小学校の黒板に残された“先生からのメッセージ”

3.11から9年――東日本大震災の傷跡 #2

2020/03/11

genre : ニュース, 社会

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白紙の「伝言板」は何を示しているか?

「伝言板」と書いて体育館に張り出した模造紙も何枚か展示されている。ただ、何も書かれていないか、書かれていてもほんの少しだ。このようなモノに何の意味があるのか。

 宮城県や岩手県の津波被災地区では、真っ黒になるほど書き込みがあった。携帯電話は通じない。家が流されてどこに避難したか分からない。そもそも生きているかどうかも分からない。必死の思いで家族や知人を探し、また伝言を残す人が多かった。

 一方、浪江町では書く間もなく、逃げなければならなくなった。隣の双葉町と大熊町にまたがって立地する東電福島第1原発の暴走が止まらなくなり、発災翌日の3月12日午前5時44分、政府が原発から10km圏に避難指示を出したのだ。

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真っ白な「伝言板」。書く間もなく避難所から逃げなければならなかった
浪江中学校の体育館には卒業式の楽譜もそのまま残されていた

 浪江町は中心街も避難エリアとなり、浪江中学校に身を寄せていた人は一斉に逃げた。その後、原発で爆発と火災が相次いで、避難指示区域は拡大され、2017年3月に「帰還困難区域」を除いて解除されるまでは、全町で避難が続いた。

「同年末に博物館で調査した時、浪江中学校の体育館は、避難した時のままでした。卒業式で歌われた曲の楽譜まで残されていました」と、筑波学芸員は語る。

避難所で開かれた臨時学級

 原発から40km以上離れた同県相馬市の旧高校校舎は、避難指示区域を脱出した人々の避難所になった。ここに逃げてきた小学生を対象に3月29日から4月14日まで、臨時学級が開かれた。

 同市の娘宅に避難した南相馬市の女性小学校教諭が、旧高校校舎に教え子を訪ねたのが開設のきっかけだった。南相馬市は相馬市の一つ原発寄りの自治体である。この時、子供達は「することもなく、不安な日々を過ごしていた」という。

 教諭が勤務していた小学校のPTA会長も、たまたま相馬市内に避難しており、話し合って臨時学級を開くことにした。相馬市内の民家に避難していた子も集まり、寺子屋と呼ばれた。展示された児童手書きの名簿には20人近くの名前が記されている。

段ボールの切れ端で作った臨時学級の名札

 低学年(1~2年生)、中学年(3~4年生)、高学年(5〜6年生)の3クラスに分かれ、ボランティアの教師が担任した。南相馬市から避難した教諭は中学年を受け持った。名札は段ボールを切って作った。

 最初は鉛筆しかなかったが、支援物資が届いてノートが行き渡った。時間割を決めて授業し、生活のパターンを整えると子供達は落ち着きを取り戻していった。

「人間らしくあるためには、鉛筆やノートがとても大切だと実感した」と、筑波学芸員はこの教諭から聞いた。ただ、気になることがあった。