日本料理が暮らしから消えてしまう
※神田裕行さんが登場したグラビア「日本の顔」もぜひご覧ください
2004年に独立し、東京・元麻布で「日本料理 かんだ」をオープンしてから、早いもので20余年が経ちました。2022年には、席数はそのまま、より広い虎ノ門の店舗に移転し、ますます目の前のお客様に集中して料理をお出しする環境が整ってきたと感じています。
18歳で大阪・ミナミの割烹で修業を始めて以来、40年以上、日本料理に向き合い、学び続けてきました。23歳の時にはフランス・パリに渡り、日本料理店の料理長を5年間。帰国後は徳島の老舗日本料理店に入り、並行して調理師専門学校の講師も務めました。

独立するまで20年以上。“コスパ”や“タイパ”が求められる昨今では、料理界のこうした修業は「馬鹿馬鹿しい」と思われるかもしれません。たしかに、1年も真面目に修業をすれば、見た目には“それらしい”料理を取り繕うことはできるでしょう。しかし、「今までにない料理を作ってやろう」といった自己顕示欲や肩の力を手放し、素材の持ち味を最も良い形で活かす奥行きのある一皿を作るには、やはり時間がかかる。その時間はどれだけ積み重ねても、まだ足りないと感じるくらいです。
「継ぐで? どうするで?」
僕の料理の原点は、徳島県徳島市沖浜町で日本料理店を営んでいた両親です。僕が10歳くらいまでは、父が祖父から継いだ魚屋「鮮魚 かんだ」を営んでいて、刺身や焼き魚といった魚料理を結婚式やお葬式の会場に配達していました。その評判が良く、のちに品数を増やし、お料理と仕出しの「沖の浜 かんだ」として営業するようになった。家族経営だったので、僕もお皿を並べたり、焼き魚にはじかみを載せたりと、よく手伝っていたのを覚えています。2階の宴会場では冠婚葬祭帰りのお客様や、学校の忘年会などが開かれ、地元のお客様に愛されたお店でした。両親が高齢になり、数年前に閉店しましたが、実家には今も当時の看板や厨房、宴会場が残っています。

そんな環境で育ったので、幼い頃から料理人になるのは当然のことだと思っていました。母はまだ10歳そこそこの僕に「継ぐんやったら店を増築する。継がんのやったら喫茶店でもやる」と言うんです。父も「継ぐで? どうするで?」と。これは当時、体が弱かった僕の将来を案じて言ってくれた言葉だったのですが、そんなことを言われたら責任重大じゃないですか(笑)。今となっては笑い話ですが、その時は「継ぐ」と応えるしかありませんでした。
それでも高校時代は、料理ではなくバンド活動に熱中していました。当時は井上陽水さんや矢沢永吉さんが大人気で、その格好良さに圧倒された。僕も音楽をやれば格好つけられると思ったんです。エレキギターを買うために喫茶店でアルバイトもしました。結局すぐには貯まらず、おばあちゃんに泣きついて援助してもらったのですが(笑)。
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