38年ぶりに日本を訪問したローマ教皇は4日間にわたり滞在した。滞在中に垣間見せた意外な素顔を筆者が明かす。
ヨハネ・パウロ2世以来となる来日
教皇フランシスコが来日した。滞在日数は足かけ4日間、短いようにもみえるが、一国ということになると、むしろ長い方に入る。教皇が来日するかもしれないという話は、随分前から聞いていた。
2019年という年は、日本とカトリック教会でいくつかの節目になる年でもあるが、アジアをめぐるさまざまな政治的緊張を融和へと移行したいという教皇の意図があったように感じる。事実、教皇は帰国する飛行機のなかで行われる「定例」の記者会見で、中国への訪問を希望していると発言した。
ローマ教皇の来日は38年ぶり、2度目になる。1981年にヨハネ・パウロ2世が訪れたのが初めての教皇来日だった。
こうした時間軸で起こる出来事であることを考えただけでも、教皇来日の意味とは、滞在中に何が起こるかだけではないことは容易に想像できる。何を語ったのかも重要なのだが、何を語らなかったのかもそれに勝るとも劣らない重要性を持つ。
今回の教皇の来日中は、「記者」申請をし、可能な限り現場に赴いた。訪れることができたのは、11月24日、長崎市西坂町の26聖人の殉教地、広島の平和記念公園、25日、東京の半蔵門で行われた「三重災害被災者との集まり」、東京ドームのミサ、そして最終日である26日、上智大学で若者たちを前に行われた講話の計5か所である。
すべての会場で記者たちには、事前に教皇だけでなく、登壇者全員が発言する予定稿が配布される。
教皇の言動は、しばしば、彼自身の予想を上回る力を持つ。教皇は世界13億人のカトリック信徒の指導者であるだけでなく、バチカン市国という国家の元首でもある。当然ながら、そこには訪問国の政府と無視できない相違が生じ、場合によっては内政干渉へと発展する危険性をはらんでいる。バチカンでは日常的に語っていることでも、場所が変れば、「内政干渉」になる可能性がある。準備された原稿を読むという様式はそれを未然に防ぐための方法でもある。
最初の取材場所となった西坂町の26聖人の殉教地に入ったのは教皇が来る予定時刻の3時間以上前だった。はじめは曇り空だった。だが、次第に雷が鳴り始め、空は暗転し、豪雨になった。保安上の関係で傘の使用を禁じられ、雨ガッパを着るほかない。
教皇到着の30分ほど前から、記者も参加者も自分の席を動けなくなる。雨足は強く、雨ガッパもほとんど意味をなさないくらいに濡れた。じっと雨に打たれている約1,000人の姿はさながら修行者のようだった。
若松氏
「言葉」よりも強い「祈る姿」
来日中に行われる公開の催しはすべて、YouTubeでライブ配信されていた。教皇の言動を確認するだけならば、現地に行く必要はまったくない。だが、雨に打たれながら待っているうちに、そうした着想は、効率を頭で考えただけに過ぎないことが分ってくる。
語り継がなくてはならないのは、発言を要約するような言語的な意味の再現ではなく、現場を包み込んでいる空気と沈黙の深みなのである。姿はまだ見えなくても、待っている人々とのあいだに深いつながりがある。晩秋の雨で冷え切るはずの場所が次第に熱気を帯びてくる。それは映像にも録音機にも記録されない。
西坂の会場には大画面が設置されていた。主たる目的は、教皇の講話の日本語の字幕が映されるためなのだが、長崎の爆心地に教皇が到着すると、その様子が流れてきた。
ひと通り関係者へのあいさつを済ませ、教皇が原爆で亡くなった人たちに献花をする。花を供えるだけでなく、教皇はそこで深く祈った。その姿を忘れることができない。これまで読んできた教皇のあらゆる言葉よりもいっそう強い衝撃が胸を貫いた。祈るとはこういうことだ、そう感じた人も少なくないだろう。政治家が献花し、祈る姿はテレビなどでしばしば見る。だが、あのとき見たのはまったく別種なものだった。
雨の中、深くこうべをたれて祈る教皇の姿を見て、自ずと浮かび上がってきたのは、上皇、上皇后のお二人が、国内外で戦争や災害で亡くなった人たちを慰霊する姿だった。教皇とお二人が会うことはなかった。だが、そこに容易に表現しがたいつながりを感じた。
原発事故被害者との集まり
半蔵門での「三重災害被災者との集まり」で、鴨下全生(まつき)という高校2年生の若者が、原発事故をめぐる証言をした。この若者は今年の3月、すでに教皇に会っている。彼が自らの窮状を手紙にし、教皇に送ったのが目に留まり、バチカンに招待されたのだった。証言は予定稿の通りに始まった。だが、あるとき彼は紙に印刷されていない言葉を話し始めた。
「原発は国策です。そのため、それを維持したい政府の思惑に沿って賠償額や避難区域の線引きが決められ、被害者の間で分断が生じました。傷ついた人どうしが互いに隣人を憎み合うように仕向けられてしまいました」
この変調に教皇はすぐに気がついていた。もちろん、日本語を理解したのではない。声の調子の変化を見逃さないのである。あえて言葉にするなら、のどから出ていた声が、肚(はら)からのものに変った。すぐ、教皇は熱いまなざしを若者に向けた。若者を含む3人の証言のあと、教皇の講話となったのだが、そこで高校生の発言に直接ふれられることはなかった。このとき真の復興に求められるのは、市井の人々の「出会い」だと語った。
「町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」と教皇はいう。ここでの「兄弟姉妹」はカトリック教会独特の表現で、心における兄弟姉妹を指す。未知なる人でありながら、わがことのように考えられる人に自分がなり、また、そういう他者との出会いこそが、真の意味での復興の道を照らしだすというのである。
講話が終わり、帰り際、教皇が壇上にいる証言者とあいさつをする。ほかの2人とは固い握手をしていたが、若者とは旧友のような抱擁をしていた。比喩ではない。教皇は、この若者に象徴されるような、傷つきながらも自分の人生から逃れようとしない「友」に出会いに来ているのである。
原発の是非をめぐっては、教皇は帰りの飛行機のなかで、個人的な見解であるとことわりながら、真に安全性が確かめられるまでは使用すべきではない、と明言した。核兵器に関してはさらに踏み込んだ発言をし、その存在が認められないことを教理として明記するべきだとすらいった。長崎の爆心地でも教皇は、いわゆる「核の傘」をめぐって強い言葉を残している。
「わたしたちの世界は、手に負えない分裂の中にあります。それは、恐怖と相互不信を土台とした偽りの確かさの上に平和と安全を築き、確かなものにしようという解決策です。人と人の関係をむしばみ、相互の対話を阻んでしまうものです」
日本は核兵器を持っていない、というのは言い訳にならない。むしろ、私たちこそが「恐怖と相互不信を土台とした偽りの確かさの上に平和と安全を築き」上げようとしている。違う道を選ぶことができる、と教皇はいうのである。
日本への特別な思い
「ご存じかどうか分かりませんが、わたしは若いときから日本に共感と愛着を抱いてきました。日本への宣教の望みを覚えてから長い時間が経ち、ようやくそれが実現しました」
日本到着時の第一声で教皇は、日本への特別な思いをこう明かした。
「フランシスコ」は教皇としての名前で、本名はホルヘ・マリオ・ベルゴリオという。イタリア系移民の子どもとして、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスに生まれた。フランシスコ・ザビエルも創設者の1人だったイエズス会に入り、カトリック司祭の道を歩み始めた。
ザビエルとの関係だけでなく、豊臣秀吉や徳川家康の禁教令のあとも信仰を守り続けた国であり、海外の宣教師にとって、日本は畏怖の念を惹き起こさせる特別な場所だった。現代の日本においてカトリックが少数派であることはベルゴリオにも分かっていた。
しかし、宣教の歴史は、日本におけるキリスト教信仰が、特異なまでの熱をもったことがある事実を伝えている。その熱をふたたび炎として立ち上がらせ、信仰の狼煙(のろし)を上げること、それがベルゴリオの希望になった。
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source : 文藝春秋 2020年1月号