時代を切り拓く“異能”の人びとの物語を、新進気鋭のライターたちが描く連載ノンフィクション「令和の開拓者たち」。今回の主人公は、JRA騎手・藤田菜七子氏です。
勝負の世界に男も女も関係ない
西に日が傾く冬晴れの中山競馬場、GⅠの裏開催と思えぬ熱気に包まれたスタンドは「ナナコー!」という歓声と拍手が止まなかった。
2019年12月8日。GⅢ・カペラステークスで、藤田菜七子が日本人女性騎手として初のJRA重賞制覇という記録を達成した。デビュー4年目の22歳は、16頭立て2番人気のコパノキッキングに騎乗し、スタートを決めると好位につけて直線で抜け出し、2着に2馬身半差の完勝。本命視していなかった競馬記者たちも「上手かったなぁ」とその手綱さばきを褒めそやした。
コパノキッキングに騎乗しJRA重賞初勝利
そんな興奮のさなかにあって、最も淡々としていたのは当の藤田だったかもしれない。
レース後のインタビューでは「素晴らしい馬に乗せていただいて私自身も少しずつ成長させていただき感謝しています」と述べつつ、破顔はしない。本人は「感情表現があまり上手じゃない」と言うが、カメラマンの1人は「良い表情にカメラを向けると顔を背けてしまう。アイドル的な撮り方をしてほしくないのだと感じる」と苦笑する。
藤田はJRAで7人目の、現役ではただ一人の女性騎手だ。女性騎手のデビューは16年ぶりで、その可憐な容姿が注目されて「菜七子フィーバー」が起き、競馬界のアイドルと騒がれるようになった。
そんな見方に実力で抗うかのように、彼女は「女性騎手の新記録」を次々打ち立ててきた。メイン競走勝利、JRA一日複数勝利、JRA女性通算最多勝利(34勝)の更新、GⅠ騎乗、重賞制覇……。カペラステークスの翌週には、JRA・地方交流通算100勝も達成した。
オーナーのドクター・コパ氏と記念撮影
ある平日の茨城県・美浦トレーニングセンター。所属する根本康広厩舎のパイプ椅子に腰掛けた藤田に、女性だからと特別視されることについて尋ねると、訥々と語った。
「勝負の世界に男性も女性も関係ないので、女性騎手だからどうとかは自分であまり意識していないというか……」
性別が言い訳にならない業界でしのぎを削る身。マスコットガール的に見られるのは本意ではないだろう。むしろ女性であることに有形無形のハンデがあることは、過去のJRAの女性騎手たちが結果を出せず早々に去ったことからも明らかだ。
では藤田はいかにして、そのハンデを克服してきたのか。
こんなに速く走れるんだ
藤田は1997年、茨城県に生まれた。奇しくも牝馬(エアグルーヴ)が26年ぶりに年度代表馬に選ばれた年だが、藤田自身は競馬とは無縁の家庭に育ち、幼い頃の夢は動物園の飼育員。両親に連れていってもらうテーマパークでは必ずポニーに乗っていた。
競馬に出会ったのは小学5年生の頃。週末にテレビをつけて、たまたまやっていたのが競馬中継だった。藤田はサラブレッドの姿に目が釘付けになったという。
「競走馬はこんなに速く走れるんだ、かっこいいと思いました」
本物を見たいと両親にせがみ、初めて東京競馬場に出かけると、目の前を疾走する馬の迫力に魅了された。振り返ればこの時期は、11年ぶりに牝馬の年度代表馬となったウオッカや、同じく牝馬で後に藤田が好きになるダイワスカーレットが活躍していた。「テレビの取り上げ方もあって、牝馬が牡馬の中に混じって頑張っているんだというのは今より感じていたかもしれません。自分と重ねているつもりはないですけど」。ふふ、と微笑む。
6年生になる春には、馬を乗りこなす騎手に憧れ、スポーツ少年団で乗馬を始めた。同級生たちとドッジボールや鬼ごっこをして遊んでいた小学生が、「友達と遊ぶよりも土日に馬に乗る方が楽しみ」と言うほどのめり込んだ。中学2年の時には、競馬学校騎手課程に進むことを前提としたジュニアチームに合格。練習は週5日になった。
必ずしも順風満帆だったわけではない。競馬学校の一次試験が免除になるジュニアチームでの選考会では、藤田だけが体力不足で不合格。ただ一方で、馬術大会では好成績を残した。母からは「ジョッキーじゃなくて誘導馬に乗る人になったら」と勧められた。誘導馬騎手なら女性が活躍している。だが、藤田は揺らがなかった。なぜか。うーん、と考え込んで、藤田は続けた。
「やっぱりジョッキーになりたかったというのが一番の理由だと思います。女性には難しいよという声もありましたが、自分はただがむしゃらでした」
競馬学校には最終的に合格した。合格者は153人中、7人。藤田は紅一点だった。しかしその快挙には、最近まで藤田も知らなかった背景があった。
藤田騎手(デビュー当時)
美浦のひょうきん族
藤田は自身の幸運について、「先生に恵まれたのが大きい」と言う。
先生、つまり所属厩舎の調教師である根本康広は、メリーナイスで87年のダービーを制した元騎手だ。藤田の生まれた97年に引退し、翌年厩舎を開業した時から独自の志を抱いていた。良い馬を預かることを目指すより、人を育てたい、というものだ。藤田の兄弟子にあたる丸山元気、野中悠太郎、そして藤田と、3人もの所属騎手を抱える厩舎は現在他にない。
かつて「美浦のひょうきん族」と呼ばれた陽気なキャラクターの根本は、冗談まじりにこう語る。
「実家が古本屋で馬の世界を知らなかった私がここまで来られたのは、師匠(故・橋本輝雄調教師)のおかげです。調教師としては、競走馬を育ててダービーや天皇賞を勝てば、記録には残るかもしれないけども、その馬は引退後にどの調教師に育ててもらったとは思い出さない。でも弟子というのは、私が亡くなっても、根本っていい加減な先生だったよなあ、とか記憶を話せるでしょ? 今どきは調教師も経営者が多くなって、経費をかけずに結果を追い求め、弟子を育てる環境ではないですが、誰だって最初から武豊じゃない。儲からなくても誰かが育てなきゃいけないんですよ」
そんな根本の元に7年前、騎手時代の先輩でもある競馬学校教官がやってきた。「こんな女の子がいるんだけど、いずれ預かってくれないか」という相談だった。女の子とは藤田のこと。既に試験を終えていたが、合否は確定していなかった。「男性騎手でも預かってくれる厩舎がない時代に一体誰が女性を預かるんだ」と不安視する声が上がり、所属先の目処がつくことが合格には不可欠だという。
そう聞かされた根本に迷いはなかった。
「私が請けますと言って、合格が決まったんです。つい最近その教官が来た時に菜七子も呼んで、もう時効だからと本人に話しました。えーっ! とは驚かなかったね(笑)。競馬界としても入学させておいてサポートできなかったのでは、一人の人生を台無しにしてしまうわけだから、私も軽く引き受けたわけじゃない。これまでの女性騎手を見てきて、大変なことだというのはわかっていたからね」
悔しいならやってみろ
かくして2013年春、藤田は競馬学校に入学した。
だが喜びもつかの間、藤田は1年目にして大きな挫折を味わうことになった。全寮制で厳しいトレーニングを続けるうち、中学時代からの課題だった男子との体力や筋力の差を痛感することになったのだ。本人が振り返る。
「1年の冬に、もう競馬学校を辞めようかなと考えました。馬にうまく乗れないので補習も受けていたんですけど、上手になる気がしなくて、精神的にすごくしんどくなってしまって。相談できるような相手もいなかった。自分がジョッキーになる未来もなかなか想像できなかった。自分から家に帰りたいと伝えて、そのまま辞めるつもりで帰りました」
学校は外泊禁止のため、本来は帰省できない。入学前から「辛くて辞めたくなったら無理せず帰ってきていいからな」と心配していた父も、娘の夢を応援しつつ誘導馬騎手を勧めたことのある母も、何も言わずに出迎えてくれた。
そこからの1ヶ月半、藤田が言うには「特に何もしなかったし、あまり覚えていない」。鬱っぽくなり寝込んでいたのだろうかと尋ねれば、「そうかもしれないですね」。帰宅する前後を含めて、記憶が曖昧なのだという。辛うじて覚えているのは、周囲からもう一度やってみたらと励まされ、不安を抱えつつも学校へ戻ることを決めたという事実だ。
当時の藤田は、泣くことがよくあったらしい。そんな涙の日々から脱却するきっかけは、競馬学校の2〜3年次、根本厩舎で1年間の研修に入ったことだった。
初めて対面した根本は気さくで、藤田の緊張はほどけた。「すごくのびのびと育ててもらって、頭ごなしに否定されたこともないし、悩みに直面した時はジョッキーとしての経験から教えてくれて心強いんです」。そう藤田は顔をほころばせる。
未来が見えないという悩みも、研修中に視界が晴れてきたという。
「女性の厩務員さんだったり調教助手の方だったり、トレセン(トレーニングセンター)で働く女性たちがいるというのは、それまで見えていなかった部分でした。直接話を聞けたのは自分の中でプラスになりましたし、皆さん気にかけてくれて、応援してくれているのを感じていました。その人たちとは今でもつながりがあって食事にも行きます」
滋賀・栗東トレーニングセンターでは、騎手から調教助手に転身した西原(現・前原)玲奈にも会った。わからないことがあったらどんどん先輩に聞いた方がいいよ、と励まされて、遠慮ぎみだった藤田も臆せず質問するようになった。
心は軽くなっていったが、課題の筋力不足には、相変わらず泣かされていた。研修中とはいえ、学校生は厩舎の一員として、レース直前の大事な調教である追いきりでも馬に乗る。責任の重さに加え、現役競走馬の力強さは、学校にいる馬とは比べ物にならない。
めそめそする藤田の目の色を変えたのは、7期上の兄弟子、丸山元気だった。
丸山が当時を回想する。
「筋力不足で馬を制御できないと菜七子が泣いたことに対して、怒ったんです。泣くほど悔しいならやってみろって」
そこから涙をこぼすことはほとんどなくなった。成長を見守ってきた丸山は、妹弟子を、他の若手よりも負けず嫌いだと評価する。勝負師には欠かせない要素だ。
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source : 文藝春秋 2020年2月号