時代を切り拓く“異能”の人びとの物語を、新進気鋭のライターたちが描く連載ノンフィクション「令和の開拓者たち」。今回の主人公は、クラシックギタリスト・村治佳織氏です。
平成の天才少女が苦難を乗り越えて─
令和元年12月21日、サントリーホールで「歴史的」ともいえる演奏会が行われた。
村治佳織(41)が、たった1人で2000席もの大ホールを満杯にして、デビュー25周年記念コンサートを開いたのだ。
冒頭からいきなりドメニコーニ「コユンババ」の不思議な旋律がホールに響き渡る。長丁場のコンサートの1曲目にもってくるには、演奏家として相当の自信がないとできないテクニカルな曲だ。
短い休憩を挟んだ後には、ブリテンの大曲「ノクターナル」をまたもや最初にもってきた。曲のテーマがラストに現れる難しい曲だが、彼女が弾くと不思議と聴かされる。
2時間半に及ぶコンサート、アンコールの「カヴァティーナ」に至るころには、女性客が目頭を押さえる場面が目についた。抒情的で緩やかなテンポの曲だが、実際の演奏はセーハの連続、アンコールで弾くには手の負担がかなり大きい。しかしそんなことを感じさせることは微塵もなかった。
演奏会翌日、村治に話を聞いた。
村治氏
「1曲目から皆さんを一気に音楽の世界に惹きつけたい、という思いはありました。『コユンババ』にはそれだけの力がある。旅先でドメニコーニがユダヤ系のイタリア人だったことに気がついて、そこから一気に曲への解釈が深まりましたね。難しい曲でも、聴きやすく感じてもらえるようには気を付けています。若い頃だと表現しきれなかったかもしれないけど、今ならできる。今回のコンサートは準備に1年くらいかけましたから、レコーディングに向かう時くらいの完成度で仕上げられました」
かつて「美少女ギタリスト」と呼ばれた彼女も、41歳の大人の女性として、さらに深化した演奏を聴かせるようになった。
もはや単なる美人ギタリストでなく、超越した芸術家として、たった1人で大舞台に立っていた。
玩具代わりのギター
村治は1978年、東京・両国に生まれた。
クラシックとは真逆のイメージがある下町の育ち。「知らないうちに、いつの間にかギターを弾いていた」と話すように、2歳の頃からギターを玩具代わりにして育った。
ギターを始めた頃
「もともと、この子には華があるなとは感じていました」
幼児音楽教育の第一人者で、「村治昇ギター早期才能教育教室」を主宰する父、村治昇はそう語る。
「例えば、運動会の徒競走では必ず1位をとる。絵も上手いというわけでもないのに、出品すれば賞をとる。読書感想文とか、標語を書けば優秀賞に選ばれてしまう。これだけなら本人の負けず嫌いという性格が出たのかなと思うのですが、学校で歯並びのコンクールみたいなのがあった時も最優秀に選ばれてしまう(笑)。こんなことが毎年のように起こるので、この子にはもしかしたら、華みたいなものがあるのかもしれないなと思いました。ギターは幼いころから教えていましたが、こればかりは教えられるものではありません」
10歳になると、日本を代表するギタリスト福田進一に師事。福田は「子供の頃から大物でした」と話す。
「他の子とは歴然と違っていて、演奏もズバ抜けていた。指摘したところも1度で直る。勘がとても良かった。初対面でも私のことを『タラコ唇』などとおちょくってくるし、私が演奏でミスして楽屋に戻ってきたら『先生、私も間違うことあるから大丈夫よ』なんて言ってくる。コンサートの大舞台でも『ジェットコースターで上がっていく感じに似ているから好き』と言って、周囲を驚かせていました。初めて行ったパリでは、パスポートを自宅の仏壇に置いたまま空港に向かってしまい、飛行機に乗れなかったこともあった。まさに石の心臓ですね」
この話をすると、村治は「男は度胸、女は愛嬌」という言葉を持ち出して「あれは、互いにないものをつけようと言っているんだなと思いますよ」と笑った。幼い頃から人一倍「度胸」は備わっていたようだ。
「葛藤はありましたね」
小学校5年生にして全国コンクールで史上最年少優勝すると、92年、中学2年生の時にはブローウェル国際ギターコンクール、東京国際ギターコンクールでも最年少優勝。翌93年にはCDデビューしている。
東京国際ギターコンクール優勝
CDデビューの際、プロデューサーを務めた元ビクターエンタテインメントの野島友雄(現タクトミュージック)は、「福田くんから『すごい子がいる』と紹介されたのが全ての始まりだった」と語る。
「初めて会ったのは14歳くらいの時で、その頃にはもうオーケストラと協奏曲を弾いていた。自分の弾いている音ではなく、壁に反響して返ってくる音を聴く、つまり聴衆にはどう聴こえているのか考えるような冷静な子でした。焦らず育てようと思っていましたが、コンクールで優勝したので一気にデビューすることになった。技術が高くて容姿端麗、まだCDも売れていた時代だった。何拍子もの要素が重なりました」
「1万枚で大ヒット」といわれるクラシック界において、96年に出した『シンフォニア』が20万枚以上の大ヒットを記録、一躍スター演奏家として注目を浴びるようになる。
14歳のデビューリサイタル
「マスコミが集まって大変な騒ぎでしたね。その後は『充実野菜』などのテレビCMにも起用されるようになり、トヨタのCMに出た時はついにやったなと思いました。アーティストが自動車メーカーのCMに出ることは、成功の証でもあるからです」
華やかな活躍の一方、学校での村治は「クラシック界のスター」という雰囲気を微塵も出さないよう気を配っていた。中学・高校と同級生だった河野貴子は回想する。
「できるだけ目立たないようにしているようでしたね。テレビに出ていることはみんな知っているけど、誰もその話はしなかったですし、唯一目立っていたのは、跳び箱の授業を、爪が割れるからと見学していたことくらいかな」
当の村治は、自らのヒットをどう受け止めていたのだろうか。
「自分の中では当たり前な存在だったクラシックギターが、こんなに知られていないんだなということに気づいたので、だったら広めていきたいなと思いました。ただ、『女子高生ギタリスト』と呼ばれることには違和感がありました。高校生であることと、演奏家というのは分けているんだけどな、大人はそう見るんだなって……。そうした葛藤はありましたね」
高校時代の村治氏
一生忘れられない出会い
コンクールで優勝し脚光を浴びるようになると、疲弊して潰れていく若手演奏家は少なくない。15歳でデビューしたとはいえ、まだまだ学ぶべきことがあった。そこで高校を卒業した1997年9月、19歳でパリに留学することになる。
パリ・オペラ座の前で
同じ時期、共にパリに留学したギタリストの大萩康司は「すでに大人でしたね」と話す。
「一緒にパリのコンセルヴァトワール(国立音楽院)を受験したのですが、当時はFAXの時代だったので、課題曲の1〜3番までが指定されていたのに字がかすれて『1番、3番』としか読めなかった。それで2人で1番と3番だけ練習して受験したら、先に演奏していた佳織ちゃんが帰ってきて『私たち駄目かもしれない』と言ったので間違いに気づいたんです。結局、2人ともエコールノルマルという別の学校に一緒に入ったのですが、彼女は平気で“なるようになる”と落ち着いていましたね」
父・昇も「いま思えば、それが良かったのかもしれない」と話す。
「もし、あのままコンセルヴァトワールに入っていたら、すでにCDデビューして忙しかったので、学業を続けるのは無理だったかもしれない。その点、エコールノルマルは自由に学べる学校でしたから、結果的には良かった」
村治本人は「ポンセ先生(ギター界の巨匠)に習うことができれば、べつに学校はどこでもいい」と思っていたから平気だったという。
パリでの留学生活は、初めて親元を離れての生活だった。ギターとフランス語の勉強に加え、生活面も自分でこなす必要がある。大萩はその様子を垣間見ている。
「料理は『そう得意じゃない』って言ってましたけど、彼女の作った肉じゃがは美味しかったですよ。ただジャガイモが冷蔵庫の裏に転がっていってもそのままにしてて、僕の方がいつまでも覚えている(笑)。大らかで男性っぽい、今でいうと『のだめ』みたいな天才肌ですね。ギターに関しては、良い意味で貪欲。『何か格好良いギター曲ないかな?』と聞かれたので、当時まだ知られていなかった『サンバースト』(アンドリュー・ヨークの現代曲)を弾いてあげたら、半年後に出た彼女のCDに入っていたのでのけぞりました(笑)。僕はその曲を弾き込んで10年後にCDに入れましたけど、彼女は良いと思ったらすぐに吸収してしまう」
その留学時代、本人が「一生忘れられない」と語る出会いがあった。
スペインの作曲家ロドリーゴが作曲した「アランフェス協奏曲」は、多くのギタリストにとって特別な曲だ。村治も、中学生の時に初めて弾いて以来、幾度となく演奏してきた。当時、彼女に密着していたドキュメンタリー番組の企画でスペインを訪ねた時、97歳のロドリーゴと対面できることになったのだ。
「カメラがなかったら、ポロッと涙を流していたかもしれません。クラシックの場合、自分が演奏する作品の生みの親に会えることはほとんどない。だからこそ、貴重で大切な体験でした。出会ってから半年後、ロドリーゴはこの世を去ったのですけれど、それから私はスペインをよく訪れるようになり、スペイン語を話せるようにもなりました」(村治)
ロドリーゴとの対面
パリより弾けたスペイン時代
23歳頃から、村治はスペインと日本との往復生活を始める。
「私の中の何かが弾けたという意味では、パリよりスペインでした。パリ留学は行きたいというより『こういう流れか』という感じで受け入れたところがありました。それまでは、なんとなく受動態だったんです。でも、スペインは自分から行きたいと思ったんです。25歳くらいからどんどん人生が加速していきました」
下町育ちの村治は、スペインの明るい雰囲気に合ったようだ。大好きな青い空の下、日焼けのことも気にせず街を歩き、夜はクラブやライブハウスなどに出かけて多くの刺激を得ていた。
中学・高校の同級生だった島田佳代子も、このスペイン時代に村治が「すごく変わった」と話す。
「学生時代も明るいし、よく笑う方だったのですが、さらに笑顔が明るくなりました。スペインでの生活で、ロドリーゴの娘さんから『カオリ、人生は楽しむものよ』と声を掛けていただけたことも、大きかったのかもしれません」
スペインでの暮らしを経て、村治の演奏はどう変わったのか。パリで一緒だった大萩は「20代までは楽譜に忠実な真っ直ぐな演奏でしたが、30代くらいから確実に柔らかい音になった」と分析する。
村治自身もこう語る。
「10代の頃は、一生懸命弾かなきゃと肩に力が入り、練習の時より滑らかにいかないこともありました。聴いている人にわかるようなミスじゃなくても、自分の中では常に『もうちょっとできるのに』という違和感がありました。でも、スペインで暮らすようになってから、段々音が柔らかくなっていった気がします」
スペイン・マドリッドのレストランにて
そんな順風満帆だった村治を襲ったのが、右手の橈骨(とうこつ)神経麻痺だ。
05年にあったコンサート当日に突然、右手が動かなくなってしまったのだ。人生で初めてギターを弾かない日々が続いた。若くしてデビューし、コンサートにスタジオ録音と、多忙を極めてきた天才の宿痾(しゆくあ)ともいえるものだった。
弟のクラシックギタリスト、村治奏一は「病気になるまで突っ走るタイプだから」と語る。
「すごく真面目なんですよ。幼い頃、ぼくなんか練習をサボってよく父から怒られていたのですが、テレビで見たい番組があっても、佳織さんはギター片手にドアの隙間からちょっと見るだけで、すぐ練習に戻っていく。大人になると世界中を飛び回っていて、動いていないと落ち着かない。自分でも手が痺れることはたまにありますが、あそこまで悪くならないうちに休んでしまう。だけど佳織さんは病気にでもならないと立ち止まれない。身体からの“救難信号”だったのかもしれません」
弟と2ショット
そう聞いて、私は思わず「まるで子供のようですね」と呟いた。子供はしんどくても言葉に出して言えず、発熱などで表現するからだ。倒れるまで走り続けるタイプなのだろう。
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source : 文藝春秋 2020年3月号