世界的な名声を博した演出家の蜷川幸雄(1935~2016)。師事していた松重豊氏が出会いを綴る。
松重さん
水戸黄門を観ていると、あくどい代官に騙される気弱な町人役などで時時出てくる人がいた。子供ながらにお芝居がさほど上手くないのがみてとれて、私は「下手クソな藤田まこと」と名づけていた。その後CMで見かけた時は、「演出家の~」と呼ばれていたから転職でもされたのかと思ったのが当時の率直な印象だ。
時を経てバブル前夜の卒業間近、まだ遊び足りないのでお芝居を続けたいが劇団に入るお金は無い。ところが最近、演出家の蜷川幸雄が若い役者を集めて劇団を作ったらしいと卒論教授が教えてくれた。授業料はタダ。22歳の僕はそこにユートピアを求めた。人生最初のオーディション会場に向かうため森下の駅を降りた。町工場並ぶ江東の街を行くと稽古場として貸し出されているビルに辿り着いた。
屋上に小さなプレハブ小屋があり「GEKI-SYA NINAGAWA STUDIO」と書いてある。案内され数人掛けのベンチに座らされた。斜め前方の机の向こうに蜷川さんが座っていて数人の劇団員を侍らせている。最初の受験者は女の子。緊張の中憶えてきた台詞を蜷川さんの前で披露しはじめた。ところが途中でつかえてしまう。無理も無い、誰か台詞を教えてやれ、蜷川さんの指示が劇団員に伝わる。しかしその劇団員も鞄から台本をまさぐり始めた。手めぇオーディションの台詞も憶えてねぇのかと劇団員に怒鳴る。もじもじした態度に切れた蜷川さんが、罵声と共に前の机を蹴飛ばし件の女子の足下まで飛んだ。
蜷川幸雄
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source : 文藝春秋 2022年1月号