2018年6月12日、世界中の目がシンガポールに集まっていた。私もここ平壌(ピョンヤン)から、米大統領ドナルド・トランプと北朝鮮の指導者・金正恩(キムジョンウン)の歴史的な首脳会談がどのように進むのか、事態の推移を見守っていた。それはなんとも不思議な感覚だった。もちろん、シンガポールのセントーサ島に世界中から寄せられる強烈な関心は平壌にいてもひしひしと感じられた。極めて重要なイベント、場合によっては我々の人生さえ変えてしまうほどの出来事が進行中なのだ。かくいう私も、熱狂するメディアの一員として全力で事態の進展を追いかけた。この日は普通江(ポトンガン)ホテルの一室に朝から晩までこもり、大量のメールを仕事仲間に書きつつ、世界各地からかかってくる取材依頼の電話――私は現在、北朝鮮に駐在している世界的に珍しい記者である――に対応していた。
だが同時に、私の周囲はとても静かであった。
この日、私は何度もホテルのベランダに出て、自分のいる場所を確認した。100メートルほど向こうに見える安山(アンサン)大通りの様子はふだんとなにも変わらない。思い出したように古びた路面電車が通り過ぎ、上を走る電線との間でバチバチと電気の音を響かせていく。いつものようにタクシーが走り回り(最近は北朝鮮の首都でもタクシーが目につく)、政府関係者や軍関係者の専用車が通り過ぎる。2、3キロ先には、くすんだ空にそびえ立つ柳京(リュギョン)ホテルも見える。100階以上あるピラミッド型の建物で、平壌のランドマークの一つだ。着工から30年になるがまだ未完で、ここに泊まった客は一人もいない。ホテルのてっぺんで明滅する赤い光は飛行機のための警告灯だろう。上空を通り過ぎる飛行機は1機もいないが。
この、あたかも台風の目の中にいるような感覚――。AP通信の平壌支局長になって5年半、私はすっかりこの感覚になじんでしまった。
それなりの成功だった
北朝鮮は“情報のブラックホール”としてつとに有名である。
おそらく、手の内を外に見せないことにかけて北朝鮮ほど巧みな国はないだろう。そのために莫大な犠牲を払っている。情報化時代への対応はとてつもなく遅れ、それがこの国の経済に深刻な悪影響を与えているのは間違いない。テクノロジーとイノベーションが王様のこの時代、北朝鮮はまたしても一人取り残され、他国が得ているさまざまな恩恵を受けられないままでいる。とはいえ、そうしたマイナス面は計算済みなのだ。安定と統制こそが北朝鮮の首脳陣にとって最も重要であり、そのために多少の犠牲と困難が生じるとしても、それはそれでかまわない。
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source : 文藝春秋 2018年08月号