父親になったときごく当たりまえに父親になったと思ったが、私のなかにふだん人のもつ父は存在しない。戸籍簿の上では生後三年半で死に別れになっているが、兵役で徴用されたのはその一年も先だったから、これでは記憶に残せというほうが無理だろう。もっともこのことがひび割れのように意識の内部を襲ったのは、そんなに遠い昔ではなかった。マラルメの「もし“花”という言葉がなければ花をどう語るのか」という問いかけにふれたときだ。なるほど、もし“父”という言葉がなかったら、という逆の感慨が私をとらえた。詩に囚われながら生きつづけるのもわるくないと思った。
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source : 文藝春秋 2023年3月号