私は長崎原爆の爆心地のすぐそばで生まれた。といっても、私が生まれたのは一九四〇年。原爆投下の五年前だから、今もこうして生きている。原爆が投下された一九四五年には、一家は北京に引越していた。
私の生まれた場所が爆心からどれくらい離れていたかというと水平距離にして六百メートル。爆心から五百メートル以内はほぼ生存者ゼロだった。原爆が破裂した瞬間、そこに太陽よりはるかに強烈な熱火球(温度百万度以上)が出現し地上のものをすべて焼きつくした。火球近くの人は瞬時に黒焦げとなった。
あの日、私が生まれた場所付近にいたとしたら私は確実に死んでいたはずだ。私が生まれた場所は、長崎医大(現長崎大学医学部)附属病院。いまでも被爆直後の爆心地付近として広く引用される米軍撮影の写真がある。一面の瓦礫しかない空漠たる原子野の中にそこだけ残った数棟の鉄筋コンクリートの建物がある。あれが附属病院で、正面右寄りの建物が産婦人科病棟だ。「お前はここで生まれたんだよ」と親が私に示すことができた写真は、昔からあの写真しかなかった。あの写真が発表されたのは、講和条約が結ばれて、日本で原爆報道が解禁されたあとのことだった。それまでは原爆が関係するニュースは、被爆写真を含め一切がGHQの最も厳重な報道管制の下にあり、何も伝えられることがなかった。従って、ほとんどの日本人は、報道解禁後の「アサヒグラフ」特集号(一九五二年八月六日号)ではじめて原爆写真を見たのだ。あのとき私は小学六年生。あの特集号に思わず息を呑み、口もきけないほどの衝撃を受けたことを今でもよく覚えている。
小学生時代にそのような衝撃体験をした人間が、大学に入学するとすぐに原水禁運動に入ったのは、ごく自然なことだった。入学したその年広島で開かれた第五回原水禁世界大会に私は東大の学生代表として参加した。本当に原水爆禁止を世界に広げるためには、原爆の与えた惨害をリアルに世界に伝えることが何より大切と考えたので、原爆の被爆写真と土門拳の写真集『ヒロシマ』、それに新藤兼人の原爆映画『原爆の子』、亀井文夫『世界は恐怖する』などをもって、世界中で展覧会、映画会を催して歩くという企画を立て、ヒロシマにきていた各国代表を片端から訪ねて協力を依頼した。そのような活動が世界の平和活動家の目を引いたのだろう。その年の暮れに、ロンドンに拠点を置く反核運動団体CND(核軍縮キャンペーン)から六〇年春に国際核軍縮学生青年会議を開くから日本代表として参加しないかという招請状が届いた。その頃イギリスは、独自の核武装をすすめる政策をとっていたが、バートランド・ラッセル卿らイギリスを代表する知識人の間から強い反対の声があがり、イギリスの最初の核基地であるオルダーマストンからロンドンまで抗議の徹夜行進を繰り広げる運動が、燎原の火のように燃え広がっていた。
その運動の中心を担っていたのが、CNDだった。CNDは東西両陣営の対立という冷戦構造のどちらにも組しないで政治的中立を保つという立場を明確にしていた。それまでの平和運動が、ヨーロッパでも日本でも共産党が重要な一翼を担っていたのに対し、核戦争の最も大きな危険性は東西対立の中にこそあるという認識の下に、共産党とはハッキリ一線を画した完全非暴力の市民運動組織である。この運動が、いまでも西欧の平和運動の中心だ。
いまNHK広島が、このような私と原水禁運動とのかかわりを描く番組を作っている。昨年その広島篇がCNDの当時のリーダーを呼んでの対談を軸に作られ、それが全国にも流れた。今年は間もなく、長崎篇を加えた新版が全国ネットで流れることになっている。つい先日その流れで長崎大学のRECNA(核兵器廃絶研究センター)との共同プロジェクトという形で、「被爆者なき時代に向けて」という特別講義と学生六十名が参加してのワークショップがあの附属病院のすぐ近くで行われた。ここで、私は「被爆者なき時代に向けて」に二重の意味を持たせた。一つは今後核戦争を起さないようにするにはどうすればいいのかという問いかけだが、もう一つは本当に被爆者がいなくなる時代を考えろの意味だ。実は長崎でも広島でも、戦後七十年を迎えて、被爆者の高齢化がすすみ、亡くなる人が急増している。被爆者団体が解散せざるをえなくなったり、被爆者の体験を聞こうにも、体験を語ってくれる人がいなくなったりという事態が起きている。私は十年ほど前に取材でヨーロッパに滞在しているとき「第一次世界大戦最後の従軍兵が本日死にました」というニュースに本当に遭遇した。第一次大戦と第二次大戦の間は二十年しかないから、あと十年ほどで「本日第二次大戦最後の従軍兵が亡くなりました」というニュースを聞くことになるのだ。そして恐らくそれと相前後して、アウシュヴィッツ最後の生き残りも死ぬだろうし、ヒロシマ、ナガサキ被爆者最後の生き残りも死ぬだろう。そういう時代に、被爆体験をどう継承していったらいいのかが、いま若い世代に突きつけられている。それがこのワークショップの課題だとした。
もう一つ課題としたのはシベリア抑留体験のある画家の故香月泰男さんが、著書『私のシベリヤ』で提起した「赤い屍体と黒い屍体」の問題だった。「赤い屍体」というのは、香月さんが満州で見た、終戦直後に現地人の恨みを買って殺され、生皮をはがれた日本人の屍体のことだ。黒い屍体は広島の原爆で黒焦げになった屍体だ。香月さんはこう書いている。「黒い屍体によって日本人は戦争の被害者意識を持つことができた。みんなが口をそろえて、ノーモア・ヒロシマを叫んだ。まるで原爆以外の戦争はなかったみたいだと私は思った。赤い屍体は加害者の死としての一九四五年だった。…私にはまだどうもよくわからない。あの赤い屍体についてどう語ればいいのだろう。赤い屍体の責任は誰がどうとればいいのだろう…」香月さんのこの疑問についてどう考えればいいのか。これがもう一つの学生に考えてほしいと課した問題だった。
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source : 文藝春秋 2015年3月号