三月二十日

日本再生 第48回

立花 隆 ジャーナリスト
ニュース 社会 国際 歴史

 三月二十日は何ともいえず変な日だった。この日は、オウムの地下鉄サリン事件から二十年目ということで、各紙が大きな特集記事を組んでいたが、内容的に新しいものはほとんどなかった。しかし、夜七時半のNHKスペシャル「未解決事件File.04 オウム真理教 地下鉄サリン事件」「新事実! オウム20年目の真相。警察対オウムの攻防」はなかなか面白かった。オウムの事件を思い出すたびに、警察はいったい何をモタモタしていたんだと思っていたが、決してそうではなかったのだ。実は警視庁の特命捜査班が、あのころオウムにすでに目をつけており、教団に強制捜査を入れる寸前のところまで迫っていたというのだ。実際にはそうならなかったから地下鉄サリン事件が起きてしまったのだが、なぜそうなってしまったのか。それはその線が、神奈川県警が前から追っていた、坂本堤弁護士一家殺害事件の線と、後に同事件で逮捕される岡崎一明死刑囚の線と微妙に重なりあっていたために、後から加わった形になる警視庁グループの側が、手を引かざるを得なくなったからだというのだ。しかし警視庁グループの一部の人々は、あのときあそこで手を引かず、強引に捜査をつづけていれば、少くとも地下鉄サリン事件だけは起させずにすんだはずと考えているという。しかし事実問題として、あそこで捜査は一旦中断されてしまったのだから、「もし中断しなかったら」という仮定の推論を無理に積み重ねていったとしても、事態を紛糾させるだけで終わっていたろう。仮定の話は仮定以上にはなれないものなのだ。

 念のためにいっておくと、現在では、警察という組織のルール上、二つの県警、あるいは警視庁が、同一の事件を追って衝突することはない。そのような場合警察庁が中に立って、どちらが優先順位が上かを調整するからだ。しかしかつては、あのオウムの一件でわかるように優先順位争いで、二つの大組織が動きが取れなくなって大魚を逃すという事態におちいったことが、たびたびあったのだ。しかし、オウム事件以後、そのような事態になることは、二度とあってはならないということで、優先順位を決めるルールがしっかり確立したという。

 私はあの頃、テレビや週刊誌とともに、いろんな形でオウム事件を追う仕事をしていたために、普通の人の耳にはなかなか入らない、(真偽不明の)いろんな情報を耳にしていた。いまでも「あれは本当だったのだろうか」と確かめられないままに終っているいろんな情報が耳の底に残っている。総じていえば、いまでも、オウム事件とはいったい何だったのか、と問われたときに、その場にいる全員を納得させられるような大きな絵図を含んだ詳細説明はないような気がする。

 最近、麻原彰晃の三女で、昔アーチャリーと呼ばれていた女の子(松本麗華)が、『止まった時計』という手記を出版(講談社)した。その中であの事件前後の個人的記憶をいろいろ書いているが、それを読んでも、あの麻原一家がどのような一家だったのか、オウムの人々が当時具体的にどう動いていたのかなどはさっぱりわからない。要するにオウム事件とは何であったのか肝心のところがさっぱりわからないのだ。

 さて話をオウムから三月二十日(現地時間十九日)に戻すと、その日はチュニジアの首都チュニスのバルドー博物館で、日本人三人を含む多数の観光客(九カ国二十人。さらにチュニジア人警察官一人が死亡)が過激派テロに襲われたと断定された日でもあった。日本の新聞を読んでいても、なぜあそこに、そんなにも多数の観光客がおしよせていたのかがさっぱりわからないが(日本では久しくチュニスは“アラブの春”との関連でしか報道されていなかった)、チュニジアのあの地区は世界で最も有名な世界遺産の一つで、古代地中海文明の中心地カルタゴの遺跡そのものなのだ。西欧語のアルファベットは、フェニキア語から生まれたといわれるが、そのフェニキアが作った最大の植民地が、カルタゴ(新しい都市の意)なのである。カルタゴは、古代地中海世界において、覇権をローマと激しく競りあった(ポエニ戦争の相手)国である。ポエニ戦争のうちの一回は、カルタゴの将軍ハンニバルが数万の兵とともに象をひき連れてのアルプスの山越えをしてローマに攻め入ったことでよく知られる無謀な戦争である。そんなことが可能と誰も思わなかった時代に、ハンニバルは一群の象を調達してそのような大遠征を構想してやってのけたのだ(私は子供のときそのあたりの話を絵本でドキドキしながら読んだことを記憶している)。三回目のポエニ戦争では、ローマがカルタゴに完勝し、カルタゴ人は全市民が奴隷として売られて終ったと伝えられている。これも国家的悲劇としてヨーロッパ人の人口に膾炙している。カルタゴの盛衰物語は、ヨーロッパ人の幼少期の読書体験に必ずあるから、いまでもカルタゴの遺跡にみんなが押しかけるのだ。

 ある時期から世界史をまじめに教えなくなった日本人の頭からは、カルタゴも、ハンニバルも抜け落ちてしまっているらしい。今回のチュニジアの襲撃事件を伝える日本のニュース報道からはアラブの春とイスラム国は出てきてもカルタゴやハンニバルがほとんど出てこなかったのはおそらくそのせいだろう。

 NHKのオウム特番でもうひとつ目を引いたのは、オウムなんて、リアルタイムの自分史的過去では全く知らないはずの若い世代の人たちの中に、思いもよらず熱心な信者たちが少なからずあらわれているという事実だった。実をいうと私は、かなり以前から、東京拘置所前の東武線小菅駅付近で、オウムの信者らしい若者がウロチョロしているところを見かけていた。全く別の事件で、あの辺に行ったときに、今度の特番にも出てきたような妙な連中を見かけた。不思議に思って後をつけてみたら、いかにも獄中の麻原を陰ながら慕いつつ(祈りを捧げつつ)拘置所周辺を歩いている不思議な連中だった。知り合いの新聞記者に問い合わせたら、かなり前からその手の連中が見かけられるようになり、当局も秘かに注視しているのだという。すでに、世間一般では、オウムの教えや、麻原の教えなどというものを信じる人は誰もいなくなっているだろうと思われていた時期である。NHKのあの番組で、アレフなどのオウムの後継組織に属する若者たちが、昔の信者そっくりの挙動で、麻原の写真に祈りを捧げているところを見て、イヤーこれはまいったなと思っていたが、今度はイスラム国まで出てくるテロ行為が蔓延し日本人がターゲットにされつつあるのだ。これはまいったまいったの二連発だ。

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source : 文藝春秋 2015年5月号

genre : ニュース 社会 国際 歴史