線虫の優れた嗅覚を利用して、尿1滴でほぼ全身のがんのリスクを判定する線虫がん検査N-NOSE。がん検査の常識を破り、全身網羅的で高精度、簡便・安価を実現したN-NOSEは、どう誕生し何を目指すのか。科学と挑戦の交差が生む可能性を池井戸潤と広津崇亮が語り合った。
科学と挑戦の交差点「N-NOSE」が拓く明日を語る
池井戸 N-NOSEは、どのような発想から誕生したのですか?
広津 がんは日本人の死因の第一位で、男女ともに約半数の人が罹患します。ただし早期発見・早期治療なら助かる人が多い。ところが日本ではがん検査を受ける人が少なく、見つかった時には手遅れというケースが跡を絶ちません。精密検査寄りの、時間とお金のかかる検査はいろいろあるけれど、誰もが簡便に毎年受けられる、いわば“入り口の検査”が存在しないからで、線虫を利用すればその問題が解決すると考えたのです。
池井戸 なるほど。しかしなぜ、線虫という生物を利用しようと考えたのでしょう。
広津 入り口の検査、すなわち一次スクリーニングに求められるのは、全身網羅的に調べられて精度が高く、簡便で安価なことです。ところがそれを全部満たすことは、機械ではできそうにない。そう思っていた時に、がんに罹患している人の尿には特有の匂いがあることを知ったのです。
池井戸 がん患者の尿の匂いを、がん探知犬が嗅ぎ分けるという。私も受けたことがあります。
広津 小説にお書きになっていましたね、線虫でなくて残念でしたが。それはともかく、犬ががん患者の尿の匂いを嗅ぎ分けられるなら、線虫にもできるはずだと。私は生物学者として線虫の研究を長年続けていましたから、線虫の嗅覚が優れていることはわかっていました。生物には機械では測れないものを感知する能力がある上に、尿が検体なら体への負担もなく簡便。しかも線虫は飼育コストが安く、安価な検査※が実現できます。 ※1回検査コース16,800円(自由診療)
池井戸 どうして他の誰も、線虫の嗅覚を利用しようと考えなかったのでしょうか。
広津 線虫は生命現象を研究するモデル生物として非常に優秀なため、線虫の能力そのものを使うという発想にならなかったのだと思います。私自身、20年間気づかなかった。
池井戸 知っていればいるほど、当たり前すぎて気づかないことがありますね。私が『下町ロケット』第一作で特許を扱ったとき、もと技術者の先輩作家からこう言われました。「文芸界で特許のことを自分以上に知っている人はいないと思っていたのに、特許をエンターテインメントにしようとは思わなかった」と。ちょっと視点を変えたり視野を広げたりすると、おもしろいことや、すごいことができたりするんですよね。
広津 本当にそう思います。
池井戸 ただ、大学発の技術が実用化される例はあまりないですよね。
広津 はい。私も実用化、事業化の過程では何度も壁にぶつかりました。たとえば自動解析装置の開発を、初めは大企業に依頼したのです。ところが時間はかかるわ値段は上がるわで。見切りをつけて、中小の企業数社と連携して独自開発することにした。すると各企業がそれぞれ得意な技術を持ち寄り、10分の1ぐらいの価格であっという間に試作機を作ってくれて。まさに『下町ロケット』でした。
がんには共通の匂いと、がん種特有の匂いがある
池井戸 先日N-NOSEを受検しました。15種のがんのリスクがわかる全身用で、Aマイナス判定という良い成績だったので、膵臓がん用の「N-NOSEプラス」は受けませんでしたが。
広津 他の検査と比べていかがでしたか?
池井戸 私は毎年1回2日間、かなりのお金をかけて人間ドックに入っています。絶食したり下剤を飲んだりして、頭から足の先までMRIだのなんだのと本当にくたびれます。しかもそれだけ調べても、見つからないがんがあるかもしれないわけですよね。線虫なら反応するのに。
広津 現状では全身用のほかに膵臓がん用と肝臓がん用のN-NOSEがあります。実は創業当初から私は「がん種を特定できる」と言っていて、一次スクリーニング検査の実用化と並行して、がん種特定検査の開発を行ってきました。なぜかというと、もともと犬の研究でがん種ごとに匂いが異なると言われていたので、それならば匂いを受け取る嗅覚受容体も異なるはずだ、と。受容体は遺伝子が発現したものですし、線虫は遺伝子操作が簡単にできるので、特定の受容体遺伝子を働かせないようにすれば、あるがん種にだけ近寄らない線虫を作れるはずだと確信していたのです。
池井戸 それはすごい。もしかして、すべてのがんに特有の匂いがあるのですか?
広津 すべてのがん患者の尿に共通の匂いと、がん種ごとに特有の匂いと、両方あるように見えています。共通の匂いがあるから、どんながんの匂いにも反応する。でも、それぞれのがんに特有の匂いもあるから、これを受け取れないようにすると、今度は近寄れなくなる。これを利用して15種類、20種類のがんを特定できるようにしたいのです。
池井戸 それがどんどん増えていくと、ものすごくいいですよね。先輩作家の伊集院静さんが胆管がんでお亡くなりになりましたが、胆管がんのように見つけにくくて、検査で見つかった時にはもうステージⅣとかになってしまっているがんが、線虫で見つかれば本当にいいと思うのです。
広津 特に発見が難しく予後が悪いがんが、膵臓、肝臓、胆嚢と言われています。膵臓用と肝臓用はできましたから、次は胆嚢です。尿だけでがん種を特定できるようになれば、あとは精密検査を受けて、徹底的に調べてもらえばいい。
池井戸 乳がんなんかも線虫で特定できるようになったら、すごい社会貢献になりますね。仕事に子育てにと忙しくて、マンモグラフィーを受けに行けない女性たちも大勢いますから。線虫がん検査というこの技術が広まれば、日本どころか世界中で助かる人が、ものすごく多いはずなんです。
研究者本人が起業して発明を社会の役に立てる
広津 先ほど、事業化の過程で壁にぶつかったと言いましたが、資金調達には苦労しました。
池井戸 資金調達は永遠の経営課題ですからね。
広津 起業の際にはベンチャーキャピタルから調達するのが常道ですから、彼らと話したのですが、研究内容をあまり理解してくれないし、株価を低く抑えようとしてくる。それで、少しずつお金を集めながら研究に力を注ぎ、企業価値を高めてから事業会社に投資してもらう、という方法を採りました。
池井戸 それは賢いやり方ですね。ベンチャーキャピタルは投資先が上場しないと資金を回収できないから、上場圧力がかかりますし。では銀行がいいかというと、銀行はベンチャーに対する投資が苦手。評価システムが決算書や試算表といった過去の実績をもとにしているので、未来に起こりうる事象の価値を評価するのが苦手なのです。
広津 研究開発型のベンチャーに、もう少し大きなお金が入る仕組みがあれば、起業する人が増えると思うのですが。
池井戸 社会の役に立つ技術を開発している研究者は結構いるはずなのに、研究者本人がビジネスマンになって技術を社会の役に立てる、という“受容体”を持っている人が少ない気がします。もったいない。その点広津さんは上手だし、ほかの研究者が踏み込めなかったところまで踏み込んだのが素晴らしいと思います。
広津 ただ、日本はほかの国よりも、新しいものに対する拒否反応のようなものが大きい気がします。正しい情報をもとに正しい議論をするのは構わないのですが、そうでない批判をされてしまうことがある。科学には裏付けとなる論文がありますから、論文を読んでくれないと議論できないのですが、読まない人が多いんですよ。
池井戸 確たる論文に基づく技術ですから、それを批判するのであれば、論文で反証するしかない。それが科学的な態度ですし、正しいものは必ず残るはずですから、N-NOSEは確実に浸透していくと思っています。
広津 とにかく私にできるのは、真摯にやっていくことだけです。
池井戸 今後はどのような展開を考えておられますか。
広津 一つは先ほど述べたがん種特定検査のレパートリーを増やすこと、もう一つは海外展開です。がんに困っているのは日本人だけではありませんし、特に途上国ではがん検査そのものがなかったりします。安価なN-NOSEならば、途上国でも役に立つと思うのです。
池井戸 海外展開は大賛成ですが、日本でももっと広めてほしいですね。若い人はがんを気にしませんが、いちばん気にするべきなのは若い人です。子供が小さいとか、家族を養わなければならないとか、そういう人たちが気軽に検査を受けるようになるといい。さらに、小児がんの早期発見のために学校の健診に入れてもいいし、普及させるための入り口がいろいろあるはずなんです。広津さんにはがん検査業界のイーロン・マスクになってもらって、どんどん普及させてほしいですね。
広津 イーロン・マスクですか!
池井戸 先ほどの自動解析装置の話なんて、イーロン・マスクのやり方と同じですよ。技術を深く理解しているからこそ、即断即決できるし、大手に依存せず自分たちで進められる。今は成長段階ですから、一気にスピードアップして、大きくなっていってほしいと思います。
広津 ありがとうございます。全力で頑張ります。
提供:株式会社HIROTSUバイオサイエンス
https://hbio.jp/
source : 文藝春秋 2024年7月号