著名人が父親との思い出を回顧します。今回の語り手は、服部隆之さん(作曲家)です。
父の仕事場は自宅の応接間だった。僕が小学3年生、世田谷代田に住んでいた頃のことだ。当時は音楽番組の全盛期。父は毎週ある音楽番組「夜のヒットスタジオ」「ビッグショー」「ミュージックフェア」の譜面づくりと、郷ひろみや五木ひろし、山口百恵や森昌子らのショーの準備で多忙を極めていた。徹夜することもしばしばで、朝まで働いた父の目は真っ赤に充血し、髪もボサボサ。そこかしこに手書きの譜面が散らばっていた。そして、ふわんと煙草の匂いがした。
朝食は父の好みで、フランスパンにカマンベールチーズを塗って食べるのが定番だった。フランスパンは、その頃まだ珍しかったDONQのものと決めていた。カマンベールチーズは子どもにはちょっと癖がある味だ。でも父はそんなことは構わず僕に食べさせた。父はフランスに音楽留学していた時代をとても大切にしていて、暮らしぶりにも大きな影響を受けていたのだ。
当時の僕はといえば、祖父の良一、父の克久と2代続く音楽家の家に生まれて、ちょっと困っていた。4歳の頃からピアノを習い始めたものの、先生たちが「服部さんのお坊ちゃんだから」と張り切るので、どうにも居心地が悪い。先生は、10人は替わった。
だけど、不思議と音楽は嫌いにならなかった。どんなにサボっても、父が決して僕を怒らなかったからだ。どうやら、音楽を嫌いにだけはならないで欲しいと願っていたらしい。僕が作曲家になりたい、父のように仏留学をしたいと思うのは、自然な成り行きだった。
1983年7月21日。僕はフランスに旅立った。思い出にと、家族旅行で南仏とスペインを巡った。旅の終わりが近づいたある日、父と2人で食事する機会があった。名もない地元の白ワインを飲みながら、珍しく父が仕事の話をした。
「商業音楽というのはな、自分の才能とテクニックを切り売りしてお金に変えていく仕事だぞ」
純音楽のクラシックと商業音楽のポップスに、上も下もない。そして、商業音楽は綺麗ごとでは作れない。商業音楽をやろうと決めた僕に、その厳しさと心構えを伝えたかったのだろう。
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source : 文藝春秋 2019年10月号