著名人が母親との思い出を回顧します。今回の語り手は、藤田貴大さん(演劇作家・マームとジプシー主宰)です。
母はいつだってきびしかった。ほとんど、怒られているときの記憶しかない。それとおなじくらい、泣いているのもよく見た。なにかと、いつも泣いていた気がする。うれしくてもかなしくても怒っていても。ぼくを怒ったあとは、かならず泣いていた。なので、なおさら怖かった。ああ、彼女はほんとうにぼくのことを怒っているのだとわかったからだ。
近所のみほちゃんがうちのトイレにはいっているところを、ぼくがその扉を開けてしまったときはほんとうに怒られた。たったいま、世界が終わってしまうのではないかとおもうくらい。もちろん、ぼくはわざとその扉を開けたつもりはなかった。鍵をかけていなかったのはみほちゃんだし、ぼくだってトイレがしたかった。けれども、みほちゃんは叫んだし、そして母が走ってきて、ぼくをこれでもかというくらい叱った。そして、目には涙をためていた。ほんとうにいけないことなのだとわかった。おまえがおんなのこを傷つけたのなら、わたしは舌を噛んで死ぬ、と言った。
そういえば、母はぼくがおんなのこだったらいいと祈っていた。おんなのこに生まれたのなら、さやかという名前をつけることが決まっていた。おとこのこが生まれることは想定していなかった。お腹のなかで、ぼくがおとこのこだとわかったとき、母はショックで3日間眠れなかったらしい。ぼくは、おんなのこだったほうがよかったのかもしれない。そう、おもったことがなんどもあった。
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source : 文藝春秋 2019年11月号