「青い珊瑚礁」「赤いスイートピー」など数々のヒット曲を世に送り出し、80年代を代表するアイドルとなった松田聖子(1962〜)。ソニー・ミュージックエンタテインメント元代表取締役副社長の稲垣博司氏が知る、その素顔とは。
昭和55(1980)年3月、CBS・ソニー躍進の立役者である山口百恵が引退を発表し、社内に大きな動揺が走りました。「第二の百恵を探せ!」という焦燥感が漂う中、聖子は「裸足の季節」でレコードデビューを果たした。百恵の婚約・引退会見から25日後のことでした。
私はCBS・ソニーで、昭和53年に発足した、自社によるアーティストの新人発掘・育成、通称「SD(サウンド・デベロップメント)事業」を企画・運営しました。創業10周年の記念事業としてオーディションを始め、その初年度に開催した「ミスセブンティーン」コンテストの九州地区大会でスカウトされたのが、聖子でした。
彼女はまさにアイドルになるために生まれてきたような女の子でしたね。とりわけ優れていたのが、声質とリズム感、そして意志の強さです。この3拍子が揃っていた。
はじめて聖子の生の歌声を聴いたときは驚きました。昭和54年の夏頃、CBS・ソニーの信濃町スタジオに聖子を呼んで、生で歌わせる機会がありました。彼女が歌い出すと、音の圧力を示すVU計の針がビーンと大きく振れた。それだけよく通る力強い声だということです。そして、若干ハスキーだけど可憐な声。「これは売れる」と手ごたえを感じた瞬間でした。
また、聖子はもともとデビュー前から、作曲家・平尾昌晃さんが主宰するミュージックスクールの福岡分校に通っていたほど、プロ志向が強かった。あのリズム感はきっと、生まれつきの資質に加え、そこで養われたのでしょう。
本人の意志の強さ、根性もずば抜けたものがありました。聖子はオーディションの九州大会で優勝して、全国大会に進出するはずでした。ところが、厳格な父親の反対に遭い、全国大会出場を辞退することになった。しかし、聖子の歌声にほれ込んだ若松宗雄プロデューサーが福岡県久留米市にある聖子の実家まで赴いて両親に直訴し、最終的には聖子本人が、「どうしても歌手になりたい」と父親を説得したのです。
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