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ユーミンのコンサートで衣装デザイナーに

 それからというもの舞台の仕事が増えていった。そのうちに自ら希望して舞台衣装も手がけるようになる。芸能活動を続けながら短大のデザイン科に通い、洋服をつくる課題も毎月提出していた経験がここで活きた。2014年には松任谷由実のコンサート衣装のデザイナーに抜擢される。彼女の夫・松任谷正隆のラジオ番組に出演した際、「ともえちゃんだったら、ユーミンにどんな衣装を着せてみたい?」と訊かれ、その場でデザイン画を描いたのがきっかけだった(※2)。

最近はすっかり落ち着いた雰囲気に。こちらは手作りの浴衣だという

きっかけは「ひいおばあちゃんの着物」だった

 東京都の青ヶ島出身の母親は着物の針子で、洋裁も好きだったという。その影響で子供のころから洋裁を始めた。青ヶ島に住む曾祖母と祖母も代々、巫女さんでもあり着物を縫うお針子さんだった。あるとき、曾祖母が神様拝みという島の行事で着ていた着物を篠原がもらった。このときの感動を、彼女は対談で次のように語っている。

《触ったときに震えるほどの気持ちになって、ひいおばあちゃんは裏地にまでおしゃれをする人だったんだ。細かく針を運ぶ人だったんだ。袖の部分は傷んでいたので働き者だったんだ……とか、その着物にはひいおばあちゃんの息吹がすべて注ぎ込まれているわけです。そのとき、私は三世代残せるものをこれまで作ったことがあっただろうかと思ったんですよね。なので、タレントの活動と一緒にデザインの仕事をしていきたい、人にアイデアを捧げていきたい。そう思うきっかけをくれたのがその着物だったんです》(※3)

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 ちなみに篠原が生まれたとき、曾祖母は「その子は歌う子になるよ」と言ったとか(※4)。こうした血のつながりといい、好きなものを掘り下げていく姿勢といい、篠原には確たるアイデンティティを感じる。デビュー当時から雰囲気はがらりと変わったとはいえ、本人は《自分自身の中では「イメチェンしていこう!」っていう瞬間はなかったんですよ。今は、年齢に合うファッションを楽しんでる時期。新しいシノラーを楽しんでるというか、自分の中ではシノラーを進化させていきたいなと思っているんです》とも語っている(※5)。これも自分のなかにしっかりと芯があるからこその発言だろう。多岐におよぶ活動も、その芯によってつながっている。

「職業・シノラー」はどんな仕事を見せてくれるだろうか

《歌をやると、声の切り替えのテクニックがお芝居に生きたり、そのお芝居の表現がプラネタリウムでの解説に生きたり。またプラネタリウムのイマジネーションが、お洋服の創作を手助けしてくれたり。私の中では表現という点で、芯がつながっているんですよね。それが私らしければ、職業は決めなくていいって。いくつも職業を持っててもいいっていうふうに、自分の中で答えを出せたんです》(※5)

 かつて詩人・劇作家などやはり多才ぶりを発揮した寺山修司は、「自分の職業は寺山修司」と言ったというが、これにならえば、彼女も「職業・篠原ともえ」……いや「職業・シノラー」とでもなるだろうか。40歳になった彼女がこれから、どんな後世に残るような仕事を見せてくれるのか、楽しみだ。

 

※1 『BIG tomorrow』2015年10月号
※2 『週刊朝日』2017年6月23日号
※3 釈徹宗『随縁つらつら対談』(本願寺出版社)
※4 『サイゾー』2015年4月号
※5 『SPA!』2014年12月16日号