作品を「ポリティカル・コレクトネス」で評価するということ
七崎 他にも、「作品を『ポリティカル・コレクトネス』の指標で評価するな」って声もSNSであったんだけれども、皆さん、そこのところはどうお考えですか。
溝口 まず、ポリティカル・コレクトネス、いわゆるポリコレという言葉の定義を一度整理したほうが良いですよね。
直訳すれば「政治的正しさ」。SNSでは、ただ単に「表現を政治的な理由で制限してくる何か」というニュアンスで使われている例も散見されますが、英語のポリティカルというのは権力をどう分配するかの全般を指します。
なので、日本語で一般的に「政治的」というと政局のイメージが強いとしたら、ここでは「社会的」と訳した方が、本来のニュアンスに近いかもしれません。
松岡 「ポリティカル・コレクトネス」は前提となるパワーバランスを捉えないといけない言葉だと思います。社会的強者、弱者の力関係をどう認識し、弱い立場の人たちをどう配慮するか、差別や偏見をなくすために何ができるかという問題かと。
溝口 まさに。だから、すでに差別されている側をさらに差別する、より貶めるような表現はポリティカリーにコレクトではないということになる。
松岡 マジョリティの人たちって「気づかないで済む人たち」ですよね。誰かを踏みつけたり、一方的に消費して、嘲笑っても、踏みつけられる側ではないので、それに気づかないで生きてくることができた。しかし、近年は特に、インターネットを通じて踏みつけられていた人たちの「NO」という声が見えるようになってきたのではないでしょうか。
七崎 そこで、急に「あなたの言動は正しくないと思う」と言われて、マジョリティの人たちはびっくりするのかも。
マイノリティの「NO」に「叩かれた」と感じるようなら……
松岡 ええ。今、「なんで怒られなきゃいけないの? 傷つけるつもりもなかったし、悪気もなかったのに」という反応が出てきているんだと思います。
マイノリティの「NO」の声を「ポリコレ」というなにか正義の棒で叩かれたように感じるのだと思いますが、そもそも「NO」を言っている側は突然怒り出したのでも、ただ気にくわない人を棒で叩きたいのでもありません。マジョリティの人たちが気づかないだけで、マイノリティは常に笑われる対象だったり、傷つけられたりしてきたのです。マイノリティがなんで怒っているのか、ちゃんと誠実に向き合い考える責任があると思います。
それに、差別の問題に限らず、常に表現って変化しているじゃないですか。昔は面白かったものが今ではもう面白くないってことはよくあるし、逆に新しい面白さが次々と生まれてきている。だから、「なんでもかんでもポリコレで規制されたら、表現の幅が狭まる」っていうのは、表現者として努力不足なんじゃないですか、とも思います。
溝口 そういう意味では商業BLの進化はいい例だと思いますよ。クリエイターたちが努力をして変えていった。
七崎 溝口さんの著書「BL進化論」には、かつてはBLのなかにも、ホモフォビアが多く含まれていたと書かれていました。
(後編「90年代BLはゲイ差別表現をこう乗り越えた……当事者たちが考える『ポリコレの先』」に続く)
写真=平松市聖