矢内原忠雄といえば、一九三七年の言論弾圧事件によって東京帝国大学教授を辞任に追い込まれたことが知られる。同時代の国体論を批判し、日中戦争・大東亜戦争に対しても批判的な態度を貫いた。戦後には東大総長に就任し、絶対平和主義や民主主義の重要性を訴えるキリスト教知識人として活躍した。
しかし、彼の一九三〇年代から戦時中の言論を丁寧に読み解いていくと、強烈なナショナリズムや全体主義の主張に出会う。戦後民主主義の歴史的根拠を矢内原に求めようとすると、次々に危うい発言に直面し、戸惑うことになる。
一体、矢内原とは何者なのか? 彼が理想とする世界像はいかなるものなのか?
著者は、矢内原の生涯を基礎づけているものを「預言者」意識とみる。預言者とは神の言葉を預かる人のこと。それを人々に告げ伝えることを使命とする。
矢内原は「神の国」の到来を人々に告げる預言者として活動する。「神の国」は「近くにある」「もう来た」「今もう来て居る」。そう説く彼は、日本こそがキリスト教の「絶対的な神」を信じ、理想国家を立てることができると主張する。日本人の愛国的奉仕の精神は高いため、西洋人よりも「神の国」の真理を深く捉えることができる。日本こそがナショナリズムの精神とキリスト教の精神を純化させ、革命的変化を起こすことができる。その媒介者が預言者であり、天皇である。
矢内原の思想の核心は「預言者ナショナリズム」である。天皇がキリスト教に改宗し、神と民族を媒介する預言者として機能するとき、日本は「神の国」になる。
そして、その先に「キリスト教全体主義」が立ち現れる。この全体主義は、〈国家の全体主義〉を超えて普遍化する。個人を統制する〈国家の全体主義〉は、国家を統制する〈宇宙の全体主義〉によって包摂される。ここに「宇宙の普遍的道義」が現前し、世界が幸福と救済に包まれる。
しかし、矢内原の理想主義は、民衆の「抵抗」や「叛逆」の可能性を排除している。「暴力を嫌い、権威への服従と苦難の受容を重視する矢内原の議論には、抵抗権の思想がほとんどみられない」。
確かに矢内原の主張は「キリスト教ナショナリズム」によるナショナリズム批判であり、「キリスト教全体主義」による全体主義批判である。しかし、そこで構想される「キリスト教信仰の上に立てられた、天皇を中心とする国家」は、どこまでも「まぼろし」であり、危険である。
平和主義者・矢内原の思想の奥には、危うい炎が揺らめいている。戦後の絶対平和主義の思想的根拠を見つめ直すために、本書は非常に重要な視座を与えてくれる。