エリートにもかかわらず、自ら最前線へ繰り出し、部下からは慕われた一方、道理に反することは上官でも容赦なく非難し、煙たがられる存在でもあった。
「(辻は)あちこちに弾の傷痕があるらしい。それを見せてくれたけどね。急所ははずれてる。なんとなしに、立派な方だからこの人についていこうかなと思った」(矢神さん)
納骨堂での生活を始めて2カ月あまり。辻氏を追うイギリス軍は、ついに僧侶を含めた民間人にも捜査の手を伸ばす。
ともに潜伏した部下7人を、辻氏は守ってくれるようなことはあったのだろうか?
矢神さんは「守ってくれた。『生きることが一番大事だ』と。『とにかく病気をしちゃだめだ』『倒れちゃだめだ』と重々言われた」と当時を振り返る。
捕まれば処刑は免れない中、辻氏は生きることに執念を燃やした。
辻氏の著書『潜行三千里』には、「死中に活を求めるには、ただ死に向かって全身を叩きつけるにある。死神を辟易させる突進力のみが、生への進路を開拓することができる」とある。
「(辻は)中国に行くと言っていた。蔣介石の部下と心やすくしているので会いに行くと。五族協和(日・漢・満・豪・朝の五族が協同し、新たな満州国の建設に当たる理念)ということを言っていたね」と矢神さんは明かした。
7人の部下と別れた辻氏は、1945年11月に僧侶から華僑に姿を変えてバンコクを脱出。その後、現在のラオスやベトナムを経て中国へ。約1万キロの旅の末、南京にたどり着く。
イギリス軍の追求が及ばないこの地で、辻氏は蒋介石率いる中国国民党の職員として2年近く過ごす。中国への脱出劇が成功したのは、参謀としての辻氏の活躍が蒋介石に知られていたためと言われている。
中国での滞在は戦犯逃れのため?
辻氏の次男・毅さんが、南京滞在中の父から届いたノート6冊に及ぶ手記を見せてくれた。
「いわゆるの父の自叙伝で、子どもに対する遺書でございます」と毅さんが話す手記には自身の生い立ちから軍人としての歩み、そして終戦直後、生きる道を選ぶまでの葛藤が記されていた。