横浜市の公式YouTubeチャンネルに、返還調印のニュース動画がある。「厚生省によって日本のディズニーランドともいえるこどもの国が作られる」と紹介されている。
こどもの国協会の線路を東急が借りた
こどもの国は接収解除された国有地で、当初は横浜市が管理運営していた。しかし翌年に「こどもの国協会」が発足して運営に当たった。当初、こどもの国への交通手段は、長津田駅や小田急線鶴川駅からのバス、またはマイカーだった。そこで軍用路線を旅客化することになり、1967年に「こどもの国線」が開業した。このとき、横浜線から分岐していた線路は東急田園都市線に付け替えられている。ここがおもしろいところだ。
なぜ「国鉄こどもの国線」ではなく「東急こどもの国線」になったか。その背景に東急電鉄が掲げた「多摩田園都市」構想があったことは想像に難くない。東急電鉄は1953年に「城西南地区開発趣意書」を発表する。後に多摩田園都市となる構想だ。開発規模は5000ヘクタール。その基幹となる交通手段として1956年に溝の口~長津田間の鉄道免許を申請する。これは後に中央林間まで延長申請され、1960年に免許交付。田園都市線の建設が始まった。
田園都市線の長津田駅延伸は1966年だ。こどもの国線は翌年に開業予定だった。東急電鉄にとってこどもの国は「多摩田園都市最大のレジャー施設」であり、渋谷方面の通勤需要とは逆方向の鉄道需要を生み出す魅力的な存在であった。阪急電鉄の宝塚新温泉、西武鉄道の西武園など、レジャー施設は鉄道の集客施設である。東急自身も玉川電気鉄道ごと二子玉川園を合併し運営していた。
一方、国鉄のほうは東海道新幹線の建設開業の時期だ。しかも地方路線の赤字問題が取り沙汰されていた。わずか3.4kmの軍用線の引き受けについて関心はなかっただろう。こうして、こどもの国線はこどもの国協会が保有し、東急電鉄が借用して営業するという枠組みになった。しかし、東急沿線でこの仕組みを知る人は少なかったと思う。
田園都市線から直通運転があった
筆者は生まれてからずっと東急沿線に住んでいて、こどもの国線は東急の路線だと思っていた。駅できっぷを買うときに見上げる運賃表には東急線として描かれていた。田園都市線からの直通列車もあった。筆者の中学校がマラソン大会をこどもの国で開催したときは、大井町線(当時は田園都市線)の旗の台駅からこどもの国駅まで、直通の団体列車を利用した。筆者のマラソン大会の感想文は、大会よりも臨時列車に乗った体験のほうに文字数を割いていた。
こどもの国線が東急の路線だと信じて疑わなかった理由は、路線の途中に東急電鉄の車両工場があったからだ。電車の点検整備を行う施設だ。ここも中学時代に見学させていただいた。