説明してくださった方の「皆さんは気づかなかったかもしれませんが、床がきれいでしょう。ネジを落としてもすぐわかるように、車両を汚さないように、常にきれいに保っています。皆さんがほかの工場に行ったときは、床がきれいだと褒めてあげてください、喜ばれますよ」という話が印象に残っている。実はいまでも筆者は鉄道の取材現場で床を褒めている。
その後、こどもの国線が東急の路線ではないと知ったときは本当に驚いた。現在は上下分離という枠組みも増えているけれども、1970年代では珍しかったと思う。この頃、こどもの国線はレジャー施設のアクセス線であり、東急車両工場への回送線だった。運行本数も週末が多く、平日は1時間に1本程度、月曜日はこどもの国の休園日だったからもっと少なかった。
沿線住民の要望で通勤線化
その閑散路線に転機が訪れる。1975(昭和50)年から沿線で住宅・都市整備公団(現・都市再生機構)による区画整理と宅地開発が始まり、1979年に横浜市へ通勤線化の陳情が出された。1987年には入居者地域の自治会からあらためて通勤線化の要望が出され、1988年に横浜市議会で通勤線化の方針が固まった。いままで中間駅はなかったけれど、新たに恩田駅を設置して、すれ違いを可能にする。運行可能本数は倍増できる。
しかし、この計画に反対する声が上がる。長津田駅付近の急カーブ区間付近に住む人々だ。こどもの国線は東急の線路に繋ぎかえたため、カーブの半径が小さくなった。電車が通過すると、車輪とレールの摩擦でキーキー音が出てしまう。音圧は100デシベルを超えていたという。
騒音は多客期に大型車両で運用するときや、大型車両が検査のため入出庫するときに顕著だったと思われる。当時の東急には6000系(初代)という、格別にうるさい電車がいた。大井町線沿線に住んでいた筆者も、休日の朝寝から起こされたほどの騒音だ。同情できる。
それでも沿線の人々が耐えてきた理由は、レジャー輸送路線のため、運行が日中に限られ、運行本数も少なかったからだ。しかし、通勤線となって早朝から深夜まで運行し、運行本数倍増となると話は変わってくる。長津田駅付近の人々にとって、ほとんど用のない路線のために騒音が増える。これは理不尽だ。
そこで「こどもの国線沿線住民会」が結成され、東急電鉄との話し合いがもたれた。カーブ区間の速度制限やレールへの散水などの対策が取られたけれども、効果は小さい。そこで1993年に横浜市へ通勤線化反対の申し入れを行った。定時性のある交通手段が希望ならガイドウェーバスに転換し、路線バスを乗り入れさせてもよいではないか。しかし、東急の車両工場からの入出庫がある以上、現行の鉄道のままという方針は変わらない。