源頼朝が朝廷より征夷大将軍に任じられたのは建久3年7月12日、西暦(グレゴリオ暦)でいえば、いまから825年前のきょう、1192年8月28日のことである。頼朝は建久元(1190)年に右大将を辞任して「前右大将」となったが、それを改めて「大将軍」の称号を希望していた。この申し出に対し、朝廷は「征夷」「征東」「惣官」「上将軍」などの候補のなかから、最終的に「征夷大将軍」を選んだとされる。こうしたくわしい経緯については、近年紹介された「三槐荒涼抜書要(さんかいこうりょうぬきがきのかなめ)」(国立公文書館蔵)によりあきらかになった。
「イイクニ(1192)つくろう鎌倉幕府」の語呂合わせで知られるように、かつて学校では、鎌倉幕府は頼朝が将軍になった1192年をもって成立したと教えられることが多かった。しかし、そもそも「鎌倉幕府」とは後世につくり出された歴史学上の概念であり、頼朝のつくった政権体をどうとらえるかで、その成立時期も違ってくる。そのため、学者のあいだではいまでも意見が分かれている。ただ、そのなかでも頼朝の将軍任命をもって画期とする説は、いささか根拠が薄いようだ。だいたい、頼朝は3年ほどで征夷大将軍のポストを辞任しているし、頼朝の後継者たちも全員が征夷大将軍の地位にあったわけではない。それでも鎌倉幕府が存続したことを考えれば、征夷大将軍への任命は、鎌倉幕府成立の決定的条件ではないといえる。
じつは、こうした考えは学界では以前より常識であり、半世紀以上前に刊行された一般向けの通史である中央公論社版『日本の歴史』第7巻(石井進著、1965年)でもすでにとりあげられていた。それにもかかわらず、教科書などでこの常識が受け入れられるようになったのは、ごく最近のことだ。ここまで時間がかかったのには、おそらく、歴史教育で長らく暗記に重きが置かれてきたことも大きい気がする。ひるがえって、現在の高校の日本史では、生徒が資料を通しておのおの考察し、論述するといった内容が学習指導要領に盛り込まれるなど、暗記よりも、自分で考えて表現することが重視されつつある(高橋秀樹・三谷芳幸・村瀬信一『ここまで変わった日本史教科書』吉川弘文館)。鎌倉幕府成立についての認識も、そうした流れから教育現場でもようやく改められたということではないだろうか。