最新刊『日本の戦争映画』(文春新書)の執筆のために、戦後に日本で作られた戦争映画を観られるだけ観た。
その中には、「あまり大きな扱いをすることはなさそうだけど、とりあえず観るだけ観ておくか」程度のモチベーションで臨んだ作品もあった。
大映が製作した、タイトルが「あゝ」で始まる一連の映画も、そうだった。『海軍兵学校物語 あゝ江田島』から前回取り上げた『あゝ陸軍 隼戦闘隊』まで計五本が断続的に作られているが、いずれも邦画ファンの間で語られることは少ない。そして、今回改めて観てみても、書きたい意欲が高まるような作品は、ほとんどなかった。
が、一本だけ、「これは凄い」と唸らされた作品がある。
それが、今回取り上げる『あゝ零戦』である。
物語は一九四二年夏のニューギニア戦線から始まる。梶大尉(本郷功次郎)の率いる零戦部隊は精強を誇り、大きな戦果を挙げ続けていた。
だが、ミッドウェイ海戦の大敗と国力の違いから米軍との戦況は悪化。上層部は爆撃機の消耗を受けて、零戦に二五〇キロの爆弾を積むよう提案してくる。空中戦に特化してスピード重視に設計された零戦に重い爆弾を背負わせれば、その特性は活かせなくなる。梶は反対するが、計画は強行される。「零戦をもっと強く育てろ。そして、爆弾を背負えなどというバカな意見を吹っ飛ばすんだ」若い兵たちに言い残した梶は零戦の爆装飛行実験に臨み、墜落死した。
本作が際立っているのは、梶のセリフに象徴されるように、飛行士たちが零戦をまるで自分の子供のように慈しんでいる点だ。その愛情のかけ方は、時に奇妙にも映る。
だが中盤以降、その想いはさらに強く描かれ、結果として痛烈なメッセージになった。
梶の願いは空しく、やがて零戦は爆弾を積み、それどころか、飛行士もろとも敵艦に突っ込む「特攻」に使われてしまう。そして、かつて梶の下にいた夏堀(長谷川明男)も、特攻の隊長に命じられた。
夏堀は、進んで特攻に志願する若い兵たちにこう言い放つ。「零戦は爆弾の翼がわりに生まれてきたんじゃないぞ! 零戦を愛すること、すなわち自分を愛することだ!」
零戦を慈しむ飛行士たちの姿を通し、人命を尊び、なんとかして生きよう、生かそうとする想いが伝わってくる。
本作の脚本を書いたのは、須崎勝彌。彼自身もまた、かつては特攻隊員だった。海軍飛行予備学生の同期生の多くは特攻で死んでいた。
命を捨てて戦うことを美談とはしない。本作に貫かれた断固たる姿勢は、そんな須崎が書いたからこそだった。