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連載昭和事件史

2021/01/03

左腕に「定」の一字が血をにじませながら

荒川区尾久町1881、尾久三業地内の待合で怪奇な殺人事件が発見された。同三業地の待合「まさき」こと正木しち方へ1週間前、夜会髷に結った31、2歳ぐらいの玄人らしい美人を連れ、50歳ぐらい、髪を五分刈り、面長のいなせな格好をした遊び人ふうの男が泊まり込み、18日まで流連し、その朝、女は外出したが、男がなかなか起きる気配がないので、不審を抱いた同家の女中、伊藤もと(33)が午後2時50分ごろ、裏2階4畳半の寝室をのぞいたところ、意外にも男は布団の中で惨殺されていた。死体は窓側西向きに仰臥し、細ひもをもって首を絞め、下腹部を刃物で切り取って殺害。布団の敷布には鮮血をもって二寸(約6センチ)角大の楷書で「定吉二人きり」としたため、さらに男の左太ももに「定吉二人」と書かれ、なお左腕に「定」の一字が血をにじませながら刃物で刻んであるほかに、便箋には「馬」と書かれているなど、猟奇に彩られる凄愴(せいそう)な情景だった。

駆けつけた警視庁、裁判所の係官一行もさすがにこのありさまに戦慄を感じ、近来の怪殺人事件として直ちに尾久署に捜査本部を設け、夜会髷の怪美人をこの惨殺犯人として各署に手配。大捜査を開始した結果、同夜深更に至り、被害者は中野区新井538、料理屋「吉田屋」こと石田吉蔵(42)で、犯人は同家の元女中、埼玉県入間郡坂戸町、田中かよこと阿部定(31)と当局は断定し、その行方を追及中である。同女は男の所持金を持って出ている。

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 確かに極めて衝撃的で好奇心をそそる事件だろう。三業地とは芸者置屋と料理屋と待合の営業許可が出ている地区のこと。待合は芸者を呼んで飲食ができ、宿泊もできる店。夜会髷とは夜会巻ともいい、髪をねじり上げてクシで留めた女性の髪形。明治以降に流行した。「二人きり」はカタカナの「二人キリ」が正しかった。