時代は光GENJIからSMAPへ
「平成に入って、急激に失速した感は否めませんでした。その後に目立った楽曲は1998年の『湾岸スキーヤー』くらい。3人そろっての活動は、毎年夏に行われる『PLAYZONE』に限られてきました」(スポーツ紙芸能デスク)
少年隊失速の一因になったのが、1987年8月に「STAR LIGHT」でデビューした後輩の光GENJIの存在だ。光GENJIは「ガラスの十代」「パラダイス銀河」とスーパーヒットを連発して大ブームを巻き起こす。
「中高生の女の子には完成度が高く芸術的な少年隊より、ローラースケートを履いて悪ガキっぽい光GENJIの方が受けました。しかし光GENJIもデビュー3年くらいで失速して、1995年に解散。時代はSMAPへと移っていきます」(女性誌編集者)
光GENJIがブームを巻き起こし、SMAPが頂点を極めるなか、少年隊は変わらなかった。ジャニーズ事務所随一のクオリティを誇る歌と踊りを毎年「PLAYZONE」の舞台で披露し続けた。その舞台で共演した後輩たちは、その後ジャニーズ事務所を支える大きな力になっている。
くっきりとわかれていった少年隊内の明暗
「TOKIOの城島茂(50)や嵐の大野智(40)などが少年隊に憧れてジャニーズに入り、少年隊の薫陶を受けてスターの階段を昇っていきました。TOKIO、V6、嵐、関ジャニ∞、NEWS、Kis-My-Ft2のメンバーたちも、『PLAYZONE』で少年隊を間近に見ることで成長していったんです。しかし2008年8月の『PLAYZONE』終了後はKis-My-Ft2らに受け継がれ、少年隊が揃って活動する機会は、その後12年以上もありませんでした」(テレビ関係者)
それ以降、少年隊内の明暗は日を追うごとにくっきりとわかれていった。
「東山は俳優、そして司会者、キャスターと幅を広げていきました。一方で錦織は俳優、舞台演出家として、植草は俳優として活動していましたが、活動はどんどん縮小していった。格差が目立ってしまいましたが、それは仕方ないこと。少年隊は人数が少なすぎたんです。
光GENJI以降は多人数アイドルグループの時代。4人以上のグループなら、1人だけ売れても他のメンバーの連帯は崩れないし、1人くらい落ちこぼれても大勢に影響はない。でも少年隊は3人。1人が売れても突出するし、1人だけ売れなくなっても目立ってしまいます。少年隊は3人そろった時のクオリティーが異常に高かっただけに、格差がはっきりしてきた30代以降はグループとしてのテンションをキープするのが難しかったと思います」(テレビ関係者)