2011年、リーマン・ショックのあおりを受けて採掘場が閉鎖された。町の郵便番号は削除され、ファーンの夫は病没した。子供はいない。年金はわずかだ。家を離れようと、彼女は決める。古びたヴァンに最低限の日用品を積み、季節労働者として働きつつ、アメリカ西部を漂流する生活に足を踏み出す。
きびしいなあ、という感想はすぐさま浮かぶ。人生の午後7時を過ぎて、彼女はなぜ、苛酷な道を選び取らなければならないのか。
体力は衰えている。経済的な余裕からはほど遠い。家族はいない。それでも彼女は、荒野を移動しつつ車上生活を送る。ネヴァダ、サウスダコタ、ネブラスカ……。ヴァンのステアリングを握り、缶詰のスープを温め、車内のバケツで用を足し、寒さに歯を食いしばって毛布にくるまる。
孤立、寂寥、貧困といった出来合いの単語は反射的に浮かぶ。が、それでくくれるほど事態は単純ではない。社会学や心理学で裁断できない「人の営み」は、世の中に数多くある。
監督のクロエ・ジャオは、82年に北京で生まれ、イギリスのブライトンで育ったあと、ニューヨークで映画を学んだ人だ。
前作『ザ・ライダー』(17)でもそうだったが、彼女の作品には、うしろ姿のショットが多い。たそがれどきの荒野をロングショットでとらえた映像もよく出てくる。『ノマドランド』でも、ファーンのうしろ姿は眼に残る。日没直後の、淡いピンクの光に染め上げられた荒野も印象的だ。
そんな映像に遭遇すると《うしろすがたのしぐれてゆくか》(種田山頭火)という絵画的な句を思い出す。《せきをしてもひとり》(尾崎放哉)という枯れ木に似た句も呼び起こされる。
ただ、現代アメリカのノマドであるファーンには、山頭火や放哉よりも骨太の体質が備わっている。寂寞よりも個の強さが際立ち、孤立と渉(わた)り合える自由の匂いが漂う。いわばゴージャスな孤独だ。
これはなんだろう。私は改めて思った。風土のちがいはもちろん大きいのだが、ファーンは「心の体幹」が並外れて強い。愚痴はこぼさない。強がりはいわない。自分をクールに突き放せる(偶然出会った教え子に「ホームレスじゃなくて、ハウスレスなのよ」と告げる場面がある)。涙を滲ませるシーンも一度きりだ。
だが、無表情な鋼鉄の女を想像してはいけない。映画の途中、私は気づいた。彼女は、亡くなった夫のことをずっと考えつづけている。嘆きや悲しみはめったに露(あら)わさないが、ごくこまかい感情の変化が、さっと顔をよぎることがある。
それ以外の場面でも、ファーンはときおり、他者に小さなサインを送る。微笑であれ軽いうなずきであれ、どれもさざなみのように控え目なしぐさだ。