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「不要」に思える人たちを抹殺したい

「でも今、ぼくと植松さんがこうやって言葉で話していますけど、本当に意思疎通できているかどうかわからないじゃないですか」

「そんなことをいい出すと、もう話がかみ合わない。そういう問題はなしにしたい。というか、安楽死に賛成反対っていうのは、海外ではもう終わった議論ですよ。いつまでその話をしてるのかなと思う」。そういって対話を断ち切ろうとする。

 私は、植松の主張が、端的にいって2つの点で間違っていると考えている。

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 一つは「安楽死」という言葉を誤解して使っている点だ。現在、オランダやスイスなど、いくつかの国で安楽死が容認されているが、いずれの国でも、安楽死は本人の明確な意思に基づいて行われるもので、植松のいうように「意思疎通のとれない人」を一律に、一方的に「安楽死させる」ことなどできない。

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 ところが植松にいわせると、それはできるし、「オランダとかでも家族の意思決定で安楽死させてますからね」という。それは一体いかなる事例なのか教えてほしいと私がいい、しばしば激論になるが、途中から彼はイライラして聞く耳を持たなくなる。あくまで植松は、自分にとって「不要」に思える人たちを抹殺したいという強固な思いが先にあり、それを「安楽死」の法制化によって実現できると信じているらしい。

 もう一つの間違いは、植松のいう「心失者」が、本当に日本の財政を圧迫し、不幸をばらまく根源であるかどうか、という点だ。

 これも現実の数字をあたれば明らかだが、年間の障害福祉予算は、国の一般会計の1%台に過ぎず、植松のいう「意思疎通のとれない障害者」に限定すれば、さらにその何10分の1以下ということになり、それが日本の財政の足を引っ張っているとは到底思えない。

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