それだけでは人間とは認められない
私は2003年に『こんな夜更けにバナナかよ』という本を書いて以来、これまで20年近く障害や福祉の分野を取材してきた。
その過程で、一見「意思疎通がとれない人」でも、言葉を超えて通じ合うのは可能なこと、また、そうした体験が時に人生そのものを変えうるほどの大きな気づきをもたらすことを、多くの障害のある友人たちから身をもって学んできた。
同じように障害者と向き合いながら、植松が彼らの存在を否定し続けるのはなぜなのか。それが彼に直接会って話をしてみたいと思ったきっかけだった。
実際に会った植松は、逮捕以来一度も切ったことのない長髪を後ろで束ねた異様な風貌ながらも、実に丁寧な言葉遣いと礼儀正しさを身につけた青年だった。
しかし、対話によって「問題」を掘り下げようとすると、とたんに表情を変え、自説を強弁してくる。例えば、「言葉だけが意思疎通のすべてではないでしょう」という私の問いに、「そりゃあ言葉を話せない人とも意思疎通できることはありますけど」と植松はいう。
「ありますよね。それはどう考えたらいいんでしょう」
「でもそれは犬猫でもありますよ。それだけでは人間とは認められない」
といら立ちを募らせた口調でいう。そこで私はこういって食い下がる。
「たとえ犬猫であっても、自分と心が通い合った犬猫は、自分にとって特別な存在になりませんか?」
「そういうのは屁理屈。ホント勘弁してほしい」
私は再度尋ねる。「やまゆり園時代に植松さんは、意思疎通のとれない人と気持ちが通い合うような瞬間はありませんでしたか?」
「だから、ごはんだよっていえば、ごはんだなとわかりますし」
「ごはん以外にもいろんなことがわかっているかもしれない。そこに意味はないのでしょうか?」
「意味がないというより、迷惑」と植松。