――撮影をされた本田恵さんと、プロデューサーであり録音も担当された藤原里歩さんとの間のコミュニケーションの問題というのは、監督自身も覚えはあったんでしょうか。
石田 自覚はしていました。僕がインタビューをしているときに、どういう位置にカメラを置くのか、どういう背景で撮ってほしいのかを二人に伝えなきゃと思いながらも、うまく言葉にできずにいて。インタビュアーとして、取材者への質問を考えること、言葉に応答することに精一杯の自分もいました。質問は、自分で考えて投げかけるから事前に用意できるけど、それに対して相手がどう答えるのかまで、想定しきれない。だから事前に「こう撮ってください」との指示もできずにいました。自分が被写体でもあるから、その場で伝えるのがより難しい。保健室での対話では、そうしたお互いの葛藤をぶつけ合うことになりました。その後は、「こういうことができたらいいな」と撮影前に言えるようになったり、逆に何も言わなくてもなんとなく伝わるようになったり、徐々にコミュニケーションのあり方が変わってきましたね。
砂連尾さんには、僕と撮影対象である美月さんや佐沢さんとの関係性と同じように、藤原さんや本田さんと僕との関係性もあるよね、と言われました。本来は、カメラの外である作り手側同士の関係性を撮ることも、表現を考えるうえで大事なんじゃないか。その指摘が、お互いの葛藤をぶつけ合うところに反映していったんだと思います。
映画の制作を通して自分自身が変わりたいという思いがあった
――それまでは、監督は自分のことを積極的に話したり、自分を映すということは考えていらっしゃらなかったわけですよね。保健室で自分の思いを吐露しあうことに、戸惑いはありませんでしたか。
石田 実は撮影の一番はじめに、顔合わせもかねてカメラの前で自分のことを語ってはいたんです。美月さんとの対話のなかでも、自分が小学校、中学校のときに感じていた、普通学校から特別支援学校に移ったときの不安やもやもやした思いについて話していた。ただ『しょうがいに向かって』では、こういう個人的な部分はいらないなと思って、その箇所は削っていました。
あの場以降、スタッフとの関係性が変わりました。当初から映画の制作を通して自分自身が変わりたいという思いがあったものの、作品に登場することは、どこか躊躇いがありました。二人の思いや葛藤をあの場で聞き、自分も言っていいのだと気づくと同時に“変わる”にはカメラの前で語ることが必要で、話し合って作る行為そのものが、自分が考えたい、表現について追い求めることなのだと気づく転換点でした。