ちなみに、百姓たちの告発をうけたセクハラ代官光心は、東福寺によって、この年をもって代官契約を打ち切られ、クビになっている。当然といえば当然の話で、彼の行状はその後も“最悪のケース”として東福寺内の語り草になっている。ただ、後年の史料によれば、彼はその後、禅僧の身分を捨て、神主家の婿に収まり、地元に住み着いたと伝えられている。殺人事件など素知らぬ顔で、僧侶から神主への華麗な転身! いやはや、どこまでもふてぶてしい、呆れたゲス男である。
“女傑”北条政子
うわなり打ちを行った人物として、おそらく史上最も有名なのは、北条政子(1157~1225)だろう。源頼朝(1147~99)の“糟糠の妻”として鎌倉幕府の創業を陰で支え、頼朝死後は“尼将軍”として幕府に君臨した、いわずと知れた女傑である。
まだ頼朝が平家を滅ぼす以前の話。頼朝と政子は親の反対を押し切って駆け落ちのすえゴールインしたとされる相思相愛の夫婦だったのだが、ただひとつ、頼朝には浮気性の悪癖があった。頼朝は政子という妻がいながら、かねて亀(かめ)の前(まえ)という名の女性を愛人にして、彼女の身を密かに家来のもとに預けていたのである。不遇時代を政子に支えてもらった義理もあって、頼朝は政子には生涯、頭が上がらなかった。そこで彼の浮気は隠密裏に進められていたのであるが、ちょうど政子が出産のために別の屋敷に移ったこともあって、頼朝の動きは公然となった(このとき生まれた赤ん坊が二代将軍頼家である)。鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』によれば、亀の前は「容貌が整っているだけではなく、性格がとくに柔和である」とされるから、“女傑”政子とは正反対のタイプの女性だったのかも知れない。
ところが、この浮気の事実が出産を終えた政子の耳に入ってしまったから、大変である。怒った政子は、寿永元年(1182)11月、牧宗親(まきむねちか)という配下の者に命じて、亀の前を庇護している伏見広綱(ふしみひろつな)の屋敷を襲撃させる。驚いた伏見は亀の前を連れて、命からがら大多和義久(おおたわよしひさ)という同僚の屋敷に逃げ込むことになる。このとき、もし伏見の機転が利かなかったら、亀の前はさきの上原郷の下女のように殺されてしまったかも知れない。
この事件を聞いて顔面蒼白となったのは、他ならぬ頼朝である。浮気がばれた……。しかも政子、すごく怒ってる……。さいわい愛人の命が無事だというのは救いだ。とはいえ、政子の手前、すぐに駆けつけるわけにもいかない……。震えて眠る夜を2晩過ごし、頼朝は翌々日を待って、亀の前が匿われている大多和の屋敷に、いそいそと駆けつける。しかし、このとき頼朝は一計を案じ、実行犯である牧宗親を騙して大多和屋敷まで同行させることを忘れなかった。そうとは知らず、頼朝にノコノコついていった牧は、大多和の屋敷で伏見と不意の対面をさせられる。唖然となって言葉を失う牧に向かって、頼朝は、烈火のごとく怒って、こう言い放つ。
「政子を大事にするのは大変けっこうなことだ。ただ、政子の命令に従うにしても、こういう場合は、どうして内々に私に教えてくれなかったんだ!」
要するに、頼朝も政子の命令に従ったこと自体は責められないのである。いいたいことがあるなら政子に直接いえば良いものを、それがいえないから実行犯である牧に怒りをぶつけているわけである。頼朝、男として、かなりカッコ悪い。