もちろん、「どこを見るか」によって、風景やそこから受ける印象が全く違うのは売春にせよ性風俗にせよ共通すること。ドンキの主になった少女は、あくまで売春少女の勝ち組であって、同じ環境を日々恐怖と不安の中で働き続ける者もいるし、自分を傷つけたくてその仕事をする者も、分かりやすく生きるためにやむない選択という当事者もいる。
そこには向き不向きや、格差が間違いなくある。
支援者が、そうした被害者像を強く抱えていたり業界に適性のない当事者にピンポイントでケアの手を差し伸べることが必要なのは、言うまでもない。
けれど一方で、強い被害者像をもつ少女にもまた、矜持を持つ瞬間があったりもする。かつては矜持をもっていたが、そののち被害的立場に陥った者だっている。
にもかかわらず、その「業界全体」を語るときに、一律に「セックスワークは不健全な産業」「それしか選択肢がない当事者は、貧しく可哀そうな救済の対象」とされたら、どうだろう?
彼女らは差別されればされるほど、「あんたらとは違う」の矜持の念を燃え盛らせる。可哀そうと言われることは差別されることと同様の「存在の否定」「かつての自助努力の全否定」であって、だからこそ支援の手をはねのけてしまうことだってあるだろう。自分たちのことを、自分たち不在で議論されることの気持ち悪さもそこにはあるに違いない。
リスペクトなき憐憫や同情は、差別に等しい。これが、彼女らセックスワーク当事者の、真情だと思う。
彼女らは決して「可哀そう」ではない
先日、元援デリ&風俗キャストだった女性に、持続化給付金について聞いたら、こんな答えが返ってきた。
「まあ、税金払ってる届け出店に(給付金を)払うべきってのは、分かる。払えよ国。けど、そうやって議論して、例えばそれでコロナで客減ってお茶引いた日の保証(日給保証)がもらえたとするでしょ。もらうもんはもらうよ。でもあたしなら、その金は生活とか子どものためには使いたくない。ホストでその晩に溶かすとか服買うとか、すげー下らないことに使い切っちゃいたいかな」
可哀そうなんて思われて出た金は、無駄遣いしてしまいたい。自分の生きる金は自分で稼ぐ。業界を上がって数年経ってもこの矜持……。
果たして現状、セックスワークを語る文脈に、当事者の誇りへの視点は確保できているのか? こうしたメンタリティをもつ当事者を不在で語ることで起きる齟齬、害悪について、改めて考えてほしく思うのだ。
『アンダーズ〈里奈の物語〉』には、児童買春や管理売春の被害者像と、同時に併存する「少女らの矜持」を描く。登場する少女らの生い立ちは悲惨かもしれないが、彼女らは決して「可哀そう」ではない。たとえそれが長続きするものでなかったとしても、その瞬間の輝きは、彼女らにとって何人にも否定できない誇りだ。世にはびこる「貧困ポルノ」に異を唱える、そのリアルな生きざまに刮目してほしい。