当時、トーマス・バッハIOC副会長は「あの発言は評価できない」と強く批判したという。それだけ、平和の祭典としてオリンピックを開催するため、元首が開会宣言を定型的に読み上げることが重要視されていると言える。
開会宣言は皇室のありかた自体も揺るがしかねない
となれば、天皇は開会式で、この定型文を述べなければならないのか。しかしそこには、「祝い(celebrating)」という文言がある。
開会直前でも、新型コロナウイルスの感染拡大状況を受け、医療の問題などを考えてオリンピック開催反対の世論の声は大きかった。もちろん、このオリンピック開催のために尽力した人々もいれば、出場のために練習に頑張ってきた選手もいる。オリンピック開催は今、賛否どちらもいる問題となってしまっている。
平成以後、天皇はより国民を意識した行動を取ってきた。繰り返される被災地訪問は、「国民と苦楽を共にする」という精神からなされたものである。その行為がメディアを通じて何度も伝えられることで、天皇はより道徳性を帯びる存在となり、国民からの親しみ、そして尊敬の念を集め、それが令和へと引き継がれてきた。
このような形で国民を統合してきた象徴天皇が、今回はある種、分断する世論の最前線に立たされることになったのである。これまでとはやや異なる方向性を求められる事態となり、反対論が多いなかで、「祝い(celebrating)」と述べれば一方に荷担することになる。となれば、天皇への批判に繋がってしまう危険性が出てくるのである。
「拝察させてしまった」政府
西村泰彦宮内庁長官が6月24日の定例記者会見で「国民の間に不安の声がある中で、ご自身が名誉総裁をお務めになるオリンピック・パラリンピックの開催が感染拡大につながらないか、ご懸念されている、ご心配であると拝察しています」と述べたのは、こうした問題があったからに他ならない。
政府はこれまで、天皇が開会宣言をオリンピック憲章に基づいて述べなければならないこと、その文言が基本的には定型文であることなどを説明してこなかった。おそらく、天皇の問題にそれほどこだわりがなかったり、意識がまわらなかったりしたのではないか。粛々と天皇は皇后とともに開会式に出席し、開会宣言を述べると考えていたのだろう。