手賀沼の干拓はようやく昭和に入って東側のほとんどが埋められて田園地帯となって一段落。ところが同じ時期に水質汚染が進んで問題となり、せっかくのウナギもほとんど捕れなくなってしまったという。1974年には水質汚染全国ワーストワンにもなっている。
幻に終わった「手賀沼ディズニーランド」
そしてそんな高度経済成長期には、なんと手賀沼のほとりにディズニーランドを設ける構想もあった。構想といってもなかなか具体的で、開発を担う全日本観光開発には元東京都知事の安井誠一郎が会長に就任、京成電鉄や東武鉄道、後楽園スタヂアム(現・東京ドーム)などのトップが役員に名を連ねるなど、かなり本気の計画だったようだ。実際に1962年には起工式も行っている。
ところが地元でよからぬ噂が広がるなど計画は順調に進まず、結局1968年にいたって開発は中止。手賀沼ディズニーランドは幻に終わっている。跡地は新興住宅地となり、その西の端が公園坂通りの終点、手賀沼公園だ。
なぜ、手賀沼にディズニーが…?
しかし、である。いったいなぜ、我孫子駅の近くは手賀沼のほとりにディズニーランド計画などが持ち上がったのだろうか。それを明らかにするには、もう少し時計の針を巻き戻す必要がある。
我孫子駅が開業したのは1896年のことだ。当時の日本鉄道が田端~土浦間を開業させたのと同じタイミングである。つまり、常磐線にとっては1期生の駅にあたる。
我孫子に駅が設けられた背景には、江戸時代から我孫子が水戸街道の宿場町であったこと(利根川にも近く、古くから交通の発達していた街だった)、そして我孫子の名士・飯泉喜雄が私財を投じて駅の誘致に取り組んだことなどがある。
我孫子駅付近の旧水戸街道は現在の国道356号におおむね一致する。つまり、駅はその旧宿場町から少しだけ離れた北側に設けられたということだ。くだんの公園坂通りは、我孫子駅と街道をつなぐ道だった。かつては「停車場通り」と呼ばれていて、両脇にはいくつもの旅館があったという。
文学の街として知られた我孫子
東京から鉄道が通じ、近くには手賀沼という風光明媚な沼もある。古くからの宿場町の面影も残す。となれば、人が集まるのも当然の流れだ。
明治の末頃からは、志賀直哉や武者小路実篤といった文人が居を構え、我孫子は一躍文学の街として名を知られるようになる。なんでも、当時は「北の鎌倉」と呼ばれていたという。○○のイチロー、○○のダルビッシュはパッとしなかったが、北の鎌倉・我孫子は白樺派の拠点のひとつとして賑わったのである。
やってきたのは文人だけではなく、駅の近くには工場もいくつかやってきた。駅のすぐ南にあるイトーヨーカドー付近には製糸工場もあった。さらに北西にある巨大なマンション群はかつて日立精機の工場だった場所だ。利根川の水運と常磐線、古き宿場町に生まれた我孫子駅は当初から、発展が約束されていたのだろう。
開業から5年後には成田鉄道(現在の成田線我孫子~成田間)も開通。成田山参詣ルートにも加わった。そんな地に、私財を投じて駅を誘致した飯泉さんの先見の明、すばらしい。