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一転、信仰の道へ

 逮捕から6日後の10月18日、正田は全面自供を始める。「『私が殺人のために電気コード2本を買い、メッカの現場で1本をボーイの近藤清に与えたが、首を絞めたのは自分だ』と述べた」(10月19日付朝日朝刊)。

 東京地裁での初公判は1953年12月19日。「正田の裁判とあって、開廷前より傍聴人が詰めかけ、普通の裁判だったら10人前後しかいない傍聴人が80人という超満員ぶりで、特に女性が多い」と同日付朝日夕刊。

正田は初公判から犯行を認めた(朝日)

 殺人罪に問われた相川は否認したが、強盗殺人の正田と殺人の近藤は起訴事実を認めた。実はこれより前に正田には大きな変化が訪れていた。

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 同年11月21日付毎日には「変転する犯罪者の心理」という記事が載っている。正田が愛宕署に留置中に書いた手記が当局経由で公表されたという。それによると、(1)事件の翌日は楽観的な気持ちで鼻歌さえ出るような気分だった(2)逃走中は絶えず追われている気持ちで自殺しようとも思った(3)逮捕された後は、親不孝な自分に対しても母の慈愛が感じられ、全てを告白して許しを乞うことこそ私の再生する道だと悟った――などと書かれていた。

正田の手記は新聞でも紹介された(毎日)

 この段階で既に信仰への傾きが感じられるが、翌1954年の出会いが正田の心境を決定的に変えた。1955年9月29日付朝日社会面トップには「カンドウ神父と殺人犯人 魂救われた正田(メッカ事件)」の記事が。長く日本で布教を続け、9月28日に死去したフランス人のカンドウ神父が正田にカトリックの教えを伝え、精神的な救いを与えたと書いている。

カンドウ神父と正田の交流を伝えた朝日

 神父は正田が精神鑑定のために入院した東京・松沢病院でたびたび面会。正田と母は1955年7月、神父から洗礼を受けたという。母は16年もの間、正田との週1回の面会を続けた。複雑な感情を抱えていた母子がようやく理解し合えるようになったということか。

書いた小説が文芸雑誌の新人賞候補に

 一方で正田は獄中で内省と日記やメモなどの執筆を続け、書いた小説「サハラの水」は文芸雑誌「群像」の第6回新人文学賞の候補に。1963年3月13日付読売には「死刑囚が新人賞候補 メッカ殺人の正田」という記事が載っている。

正田の新人賞候補小説「サハラの水」(「群像」より)

 東京拘置所の医官として正田と交流を続けた精神科医・小木貞孝(作家・加賀乙彦)氏は内村祐之・吉益脩夫監修、福島章・中田修・小木貞孝編集「日本の精神鑑定増補新版」の中で「これは人間不信という内面の心象風景を砂漠に象徴化し、そのなかにあって神を求めるという苦しみを描いている。死刑囚という極限状況が生み出した創造的文章として注目される」と書いている。

加賀乙彦(文藝春秋)

 1956年11月15日の公判では、精神鑑定を担当した林暲・松沢病院長が「正田は軽い精神分裂症(現統合失調症)であったとみられるが、それを現在証明する確証はない」と微妙な鑑定結果を公表した。