「犯行は残忍で鬼畜の所為」判決は…
そして同年12月15日の判決。正田は死刑、近藤は懲役10年、相川は同5年で、いずれも求刑通りだった。判決理由は「犯行は残忍で鬼畜の所為。全く享楽的な動機で計画は周到。正田にある程度分裂的な傾向は見られるが、責任能力や道義的な判別力がなかったとはいえない」だった。
12月15日付毎日夕刊は、判決が言い渡されたとき、「正田の顔は真っ赤に染まり、ふるえた」と記述。正木亮・弁護人の「(正田は)死刑を極端に怖がっているんです」という談話を載せている。
一方、加賀乙彦「死刑囚の記録」には一審判決後に面会した際の正田の言葉が記されている。
「死刑の求刑を聞いたときはがっかりしまして、三日ぐらいあまり眠れませんでした。しかし、母がなぐさめてくれたこともあってすぐ立ち直りました。ですから判決を聞いても、別に動揺しません。ただ、母に泣かれて困りました」
どちらかが本当かもしれず、どちらも本当かもしれない。だが、報道は一貫してレッテル張りを続けたように感じる。
控訴審でも弁護側の要請で吉益脩夫・東大教授らが精神鑑定を実施したが、結果は前の鑑定とほとんど同じ。1960年12月21日の控訴審判決は控訴棄却。そして1963年1月25日、上告が棄却され、死刑が確定した。
1969年12月9日、死刑執行。死刑に関して秘密主義を貫く日本では、新聞に正田の訃報は載らなかった。ただ、同年12月18日付読売夕刊1面コラム「よみうり寸評」が「9日、小菅刑務所(東京拘置所)で死刑を執行された」とし、「彼の最期の手紙は、凶悪な殺人犯のものでなく、悔い改めた求道者のものである」と書いた。
小木貞孝氏は「日本の精神鑑定増補新版」でこう回想している。「死後、昭和46年6月、遺稿が『獄中日記・母への最後の手紙』として女子パウロ会より出版された」「処刑寸前まで書きつがれた母への手紙はこの稀な資質を持つ死刑囚の最後の言葉として鬼気迫る力を持っている」。