あの日から2年数か月。私はその間、4回、Fと面会している。所用や取材で広島を訪れるたびに、私は広島拘置所に赴く。そのたびに、Fは面会室のアクリル板を挟んで、私とさまざまな話を交わすのである。遺族の本村洋さんの9年間の絶望との闘いを描いた私は、Fにとっては本来、敵側の人間かもしれない。しかし、Fは、そんな私にこの2年余、自分の胸の内を可能な限り明かしてくれている。
「僕が上告したのは、“判決文”に不服だったのです」
2度目に面会した2008年7月、Fは、私に最高裁に上告した理由をこう語った。
「僕が上告したのは、判決に不満だったからではありません。“判決文”に不服だったのです。僕は、これまで検察に迎合して(裁判で)嘘を言っていました。これは、僕のもう一つの罪です。僕が上告したことが本村さんを哀しませているかもしれません。僕はそのことを謝りたいのです」
不服なのは死刑という「結果」ではなくて、その結果を導き出した「判決理由」であり、そのために上告したので、それを本村さんにわかって欲しい、というのである。そして、Fはこうもつけ加えた。
「僕は人に対して殺傷行為をやった人間です。しかも、大人だけでなく、赤ちゃんまで殺傷してしまった人間です。そのことだけで、この一事だけで、死に値します」
Fの目は真剣で、私から視線を逸らさない。必死でFは私にそう語ったのである。
3度目の面会は、2010年3月だった。この日は偶然、亡き弥生さんの誕生日の翌日だった。Fはそのことを忘れていなかった。
「昨日、弥生さんの誕生日だったんです。こちらで(ご冥福を)祈らせてもらいました」
Fは拘置所内に場を設えてもらい、被害者の弥生さんと夕夏ちゃんにお祈りを捧げることが多いという。プロテスタントであるFは、心を許した牧師に特にお願いして、そういう時間を過ごしていることを教えてくれた。
「死刑判決を受けて、いろいろなことが見え始めました。自分の視点ができたように思います。“自分の限りある命”をどうするか、ということを僕は考えています」
Fはそう語った。面会を繰り返す度に、Fが口にする言葉は重みを増していく。