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2021/12/08

source : 文春文庫

genre : 読書, 歴史, 社会, 政治

二次攻撃の意見具申はなかった

 第二撃をやらなかった件について、アメリカ側でも日本側でも大きな批判がある。あれほどの戦果を挙げたのであるから、第二撃を行なって戦果を拡充するのは、兵術家ならばだれでも考えるところである。では、果たして第二撃はできたであろうか。

 当日、第二次攻撃隊の最後の飛行機が着艦したのは、午前10時近くであって、日没前3時間である。第一次、第二次攻撃隊は、着艦する順序に対艦船攻撃に備え、攻撃機は全機雷装、爆撃機は通常爆弾を装備していた。これらを陸上攻撃用に兵装を転換し、集団攻撃を行なうとすれば、発艦時刻は早くて12時ごろになり、夜間攻撃、夜間収容となることは必定であった。作戦海面の天候は、風速13~15メートル、うねりは大きく、雲量は5~7、母艦は最大15度のローリングをしていた。この天候は平時ならば、演習中止になるところである。

 この状況で、十分な成果を期待し得る攻撃を行なうためには、大攻撃隊を使用しなけばならない。あの海面で、大攻撃隊の夜間収容を行なったとすれば、練度の高い部隊ではあったが、その混乱は想像に余るものがあり、相当の損失を覚悟しなければならなかった。

 敵の航空母艦が少なくとも2隻、ハワイ近海にいることはわかっていたが、その所在はつかめないままに二次攻撃を行ない、夜間収容のために飛行甲板に点灯しているとき、敵母艦機の攻撃でも受けたならば、南雲長官は兵術を知らざるものとして、一世の笑い者にされたことであろう。

 以上の見地から、いったん北上し、敵の基地飛行機の威力圏外から敵空母を捜索し、もし発見したならば、これを攻撃しようと決心した南雲中将の判断は正しかったといえよう。(翌日、広範囲の索敵を行なったが、敵空母を発見することはできなかった)

 もし第二撃を行なうとなれば、9日の早朝であるが、これも敵空母の所在を確認しないままに行なうことはできなかった。

©️iStock.com

 なお、プランゲ博士著『トラトラトラ』その他に、赤城艦橋における二次攻撃に関する意見具申が取り上げられ、激烈な論議が交わされたようになっているが、筆者は開戦8時間前から4日間、不眠不休で艦橋につめていたのであるが、そんな事実は全然なかったことを付記しておく。もちろん筆者は意見具申は全然やっていない。攻撃前日まで長官に、二次攻撃の必要性を具申し、命令には「戦果が大いに挙がったとき、戦果が足らないとき」ともに二次攻撃を行なうようになっていたが、それはただそれだけのことで、長官には二次攻撃の意志はなかったようである。

 後日、草鹿参謀長から聞いたところでは、長官と参謀長は、初めから「二次攻撃はやらない」と決めていたとのことである。

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