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「そんなに需要があると思ってない」DJ赤坂泰彦61歳が、千鳥・大悟の「今のテレビには赤坂さんが足りない」発言に“伝えたいこと”

赤坂泰彦さんインタビュー #3

2021/11/11
note

「赤坂君のお父さんって、外国人なの?」

赤坂 団地に住んでいたものだから、親父が帰ってくるときは近所の子供が10人くらい集まってくるんですよ。行くところも、やることもないから(笑)。ボストンバッグを2個抱えた、日に焼けてシュッとした親父がタクシーから降りてくると「赤坂君のお父さんって、外国人なの?」なんて訊かれてね。まんざらでもないので「あ、わかっちゃった?」と答えてましたけど。

――お祖父様も写真家だったそうですし、なにかしらトガったものを持つ家系だったのでしょうか。

赤坂 祖父がアマチュアの写真家でした。「After Haul」という作品がいまもニューヨーク近代美術館(MoMA)に永久保存されていることは、僕の誇りです。

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 祖父さんも親父も、聞かせてくれる話は面白かったですね。祖父さんだったら、スキーをやっていたらスピードが上がって止まらなくなって、山小屋を飛び越えるほどジャンプしただとか、親父だったらニューヨークのマンハッタンはこんな街なんだとか、「七色の海って知ってるか?」とか。子供心を掴んで離さない話をするんですよ。

 特に祖父さんの話は、受け売りのような形で団地の子たちに話すとウケて。ジャングルジムの上に4~5人で登っては、いろいろ話していたんですけどストックがなくなっちゃって。「泰彦ちゃん、なんか他の話はないの?」「嘘でもいいから、なんかお話してよ」って言われた時、子供心に「ああ、脚光を浴びてるな」と思った。別に話上手ではなかったんですけど、自分に得意分野ができたんだ、面白い話を面白く聞かせると注目されるんだってハッとしましたね。

――幼少時、ラジオ番組を通じて船上のお父様にメッセージを届けたというのは、後にラジオの世界で活躍される赤坂さんならではのエピソードだなと感じます。

赤坂 ラジオたんぱ(現・ラジオNIKKEI)の特別企画だったかな。母親が応募していたのか、細かい経緯がわからないんですけど、僕が出演できることになったんですよ。ラジオカーの後部座席で録音して、それを短波で流して、親父が船の上で受信するという。ラジオカーに乗る経験も、自分の声が船上に届いてしまうってことにも興奮しましたね。

 局のおじさんにマイクを向けられて「よーい、スタート」と録音が始まったけど、「お父さん、こんにちは。赤坂泰彦です」って電報を読み上げてるみたいになっちゃって録り直しました(笑)。その放送を聞いた覚えもありますけど、「元気で帰ってきてください」くらいしか言えてなかったと思います。

東京JAPにつながる“音楽遍歴”

――音楽も子供の頃からお好きだったのですか?

赤坂 小学生の頃から、ラジオから流れてくるビート音楽が好きだったんですよ。それで中1の時にエルヴィス・プレスリーがハワイでやった衛生生中継のコンサートをテレビで見て、もう興奮しちゃって。その放送の音声をオープンリールのレコーダーで録っているんだけど、後で聞いたら僕の「すげえ! すげえ!」と騒いでる声のほうが大きく入っちゃっていて。

 そのライブ盤がすぐにリリースされて、カセットテープを買って聴いたんですよ。改めて聴いたら、ロックだけじゃなくて、カンツォーネのような曲もあるし、ブルースもあるし、いろんなジャンルの曲を歌っていて。エルヴィスにやられたのはもちろん、このアルバムのおかげでどんなジャンルにも拒絶反応が起きないようになったんですよ。そして、そこへキャロルが出てきたと。

 エルヴィスよりもシンプルでストレートな3分間のロック。「3分でお前を天国まで連れていく」みたいなね。それでキャロルのコピー・バンドをやりたくなったんですよ。そこからずっとバンドを続けて、東京JAPにつながっていったという。

――さらに、ジョージ・ルーカスが撮った映画『アメリカン・グラフィティ』(73年)にも出会ってしまうと。

赤坂 60年代の曲も多かったけど、キャロルのカバーで知ったチャック・ベリーの『ジョニー・B・グッド』とか僕が夢中になった曲がひっきりなしに流れていく。さらにディスクジョッキーがいて、リーゼントの少年もアイビーの少年もいる。「おまえがこれまで興奮してきたものをまとめてやったぜ」って感じで、僕にとってはまさしく稲妻級の出会いでしたね。

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